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「大運河」 の煬帝

今日4月11日は、中国「隋」の第2代皇帝で、中国史を代表する暴君といわれながらも「大運河」を建設した煬帝(ようだい)が、 618年に亡くなった日です。煬帝は、聖徳太子が小野妹子を「遣隋使」に派遣した時の皇帝としても知られています。

569年、のちに隋王朝を建国する文帝の次男として生まれた煬帝(楊広)は、588年に陳王朝討伐軍の総大将となり、首都建康(いまの南京)を攻め落とし、およそ300年ぶりに中国再統一に大きく貢献しました。600年に皇太子だった兄に代って皇太子になると、604年には父と兄を殺して皇帝になりました。

煬帝がまず行ったことは、都の大興城(いまの西安)とは別に東の都として現在の河南省西部に洛陽を建設し、国内から数万という富豪を強制移住させて、大経済都市にしました。605年には、北は今の天津から黄河、長江を経て杭州にいたるまで延々1500キロメートルにも及ぶ運河の建造を開始し、女性を含む100万人もの民衆を動員して610年、華北と江南を結ぶ「大運河」を完成させました。これにより、中国の南北の物資の流通が便利になったばかりでなく、人の交流が盛んになったことで、政治上でも大きな役割をはたすようになりました。この大運河は、歴代の王朝によって整備されながら、「京杭大運河」の名で今も機能しているのは、煬帝に先見の明があったといわれています。

いっぽう煬帝は、モンゴル・中央アジアを支配していた突厥にそなえて万里の長城の修理にはげみ、西や南に隋と接する諸民族をしたがえ、琉求(琉球でなく台湾またはフィリピン)にも軍を派遣するなど、領土の拡大にも努めました。わが国への働きかけに対し、607年に聖徳太子が小野妹子を遣隋使に派遣し「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名な書き出しで始まる国書を手渡したのも、積極外交を続ける煬帝の意図に関連するものと思われます。煬帝は「自分を日没の国の天子とは何ごとか」(倭王が天子と勝手に名乗ったことに対するものかは不明)と激怒したといわれますが、のちにわが国へ裴世清を返礼に派遣しています。

さらに煬帝は、612年から3度にわたり朝鮮半島を支配する高句麗遠征を実施するものの失敗に終ったことで、煬帝の権威は失墜しはじめました。大規模な土木工事や遠征に必要な費用は、民衆の税金からまかなわれていたことから、全国あちこちで民衆の反乱がおこり、煬帝は難をのがれるために江都(いまの揚州)に逃れましたが、護衛の兵士に殺され、隋は滅びてしまいました。


「4月11日にあった主なできごと」

1868年 江戸城開城…徳川15代将軍だった徳川慶喜が水戸へ退去し、江戸城が明治新政府の手にわたりました。前月行われた、旧幕府代表の勝海舟と、新政府代表西郷隆盛の会談できめられた、江戸城の無血開城が実現したものです。

1921年 メートル法の公布…欧米との交流がさかんになり、わが国でこれまで使われてきた尺貫法では不便なことが多く、メートル法の採用を決めました。しかし、なじんできた尺貫法も、業種によっては今も使用されています。

1951年 マッカーサー解任…太平洋戦争で降伏した日本は、連合国軍総司令部(GHQ)に占領され、アメリカのマッカーサー元帥が5年半近く総司令官として君臨してきました。この日、「老兵は死なず消え去るのみ」という名文句を残して解任されました。
投稿日:2014年04月11日(金) 05:13

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)