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「天才的軍師」 黒田官兵衛

今日3月20日は、竹中半兵衛とともに豊臣秀吉の側近としてつとめ、半兵衛亡きあとは秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛(くろだ かんべえ)が、1604年に亡くなった日です。

1546年、播州平野(兵庫県)に勢力を持つ戦国大名の小寺政職(まさもと)に仕える黒田職隆(もとたか)の長男として播磨国の、まだ小城だった姫路城に生まれた官兵衛は、1562年に政職の近習となり、この年に父と共に土豪を征伐して初陣を飾りました。1567年ころ、父から家督と家老職を継いで姫路城主となりましたが、当時は毛利氏の影響が強く、主君の政職や重臣たちも毛利氏につくことを考えていました。ところが官兵衛は、勢いをます織田信長につくべきと重臣たちを説きふせます。1577年、官兵衛はわずか500の兵で毛利と同盟する播磨の三木通秋軍5千の兵を打ち破る成果をあげると、忠誠を示すために長男の松寿丸(のちの黒田長政)を人質として信長の元へ送りました。

やがて中国地方の攻略をまかされた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍勢が播磨に入国すると、官兵衛は中国攻略の拠点にするよう、居城の姫路城を明け渡します。その後は竹中半兵衛とともに秀吉の指揮下で才能を発揮していきました。

1582年本能寺の変での信長の死で、天下統一目前まで来ていた織田軍団は大混乱に陥り、備中(岡山県)の地において秀吉もまた絶望に打たれました。しかし官兵衛は、「織田軍は各地に散らばってしまっています。今、ただちに大軍を動かせられるのはわが軍のみ」と耳打ちしたと伝えられています。そんな態度を周囲に見せまいと秀吉は大号泣する芝居をしますが、秀吉に官兵衛のすえ恐ろしさを植えつけ、亡くなるまで官兵衛を警戒するきっかけとなったようです。

高松城の水攻めなど四国征伐での長宗我部元親との対決、毛利氏との講和、九州征伐での島津氏との対決、小田原征伐など、秀吉の行動の裏にはいつも官兵衛の姿がありました。

秀吉が、自分の死後に天下を取るのは誰かと近習にたずねたところ、五大老の前田利家、徳川家康らの名が出るなか、秀吉は「さも恐ろしきは官兵衛」と答えたそうです。大大名の中でわずか10万石程度の一軍師に過ぎない官兵衛の名前をあげたのは、秀吉がその才覚を恐れ、わざと低い石高に抑えていたのかもしれません。これを聞いた官兵衛は家督を息子の長政に譲り、自身は「如水」と称して出家しました。

1600年、秀吉の死後に天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」がおこります。石田三成、毛利輝元らの西軍と、徳川家康を中心とする東軍が激突する中、豊前中津(九州の大分県)にいた黒田官兵衛(如水)は、「この戦いは長期化する。そのすきに九州を制圧し、疲弊した中央政権に攻めこむ」という構想を練ったばかりでなく、たちまち九州の諸城を落としていきました。ところが、息子の長政と共に戦った小早川秀秋の寝返りにより戦いはわずか一日で終わってしまい、官兵衛の野望が明るみに出ることはありませんでした。


「3月20日にあった主なできごと」

1727年 ニュートン死去…万有引力の法則、数学の微積分法、光の波動説などを発見したイギリスの物理学者・数学者・天文学者のニュートンが亡くなりました。

1828年 イプセン誕生…『人形の家』『ブラン』『ペール・ギュント』などの戯曲で知られ、「近代演劇の父」といわれるノルウェーの劇作家イプセンが生まれました。

1882年…上野動物園開園…東京上野に、博物館(いまの国立博物館)の付属機関として、日本初の近代的動物園が開園しました。

1995年 地下鉄サリン事件…通勤・通学で混雑する8時ころ、東京の5つの地下鉄の中に猛毒サリンがまかれ、死者12名、重軽症者5500人以上という大惨事がおこりました。犯人は、オウム真理教という宗教団体であることが判明しました。
投稿日:2014年03月20日(木) 05:33

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)