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「ピアノ協奏曲第2番」 のラフマニノフ

今日3月28日は、ロシア出身の作曲家・ピアニスト・指揮者で、今も人気のある曲を多く残したラフマニノフが、1943年に亡くなった日です。

1873年、ロシア西部ノブゴロド州の貴族の家に生まれたセルゲイ・バシリエビチ・ラフマニノフは、幼少期を豊かな自然に恵まれたオネグで過ごしました。4歳の時、セルゲイの音楽の才能に気がついた母は、ペテルブルクからピアノ教師を呼び寄せてレッスンを受けるうちめきめき上達しました。しかし、9歳の時に一家は破産して両親が離婚、母は子どもたちを連れてペテルブルクに移住します。セルゲイは才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院で3年間ピアノを学んだ後、1885年にモスクワ音楽院に転入、厳格な指導で知られるピアノ教師ズベレフの家に寄宿しながら、ピアノ演奏の基礎を徹底的にたたきこまれました。やがて名人技を身につけ、ズベレフ家を訪れるチャイコフスキーにも才能を高く評価されるほどでした。

1891年にモスクワ音楽院ピアノ科を主席で卒業すると、同年に「ピアノ協奏曲第1番」を完成させ、翌年にはプーシキンの詩による歌劇『アレコ』をわずか数日のうちに書き上げ、同音楽院作曲科の最優秀卒業生に贈られる金メダルを授けられました。さらに、同年秋のモスクワ電気博覧会で「前奏曲嬰ハ短調」を初演したところ、熱狂的な人気を獲得しました。翌93年5月には『アレコ』がボリショイ劇場で上演され、同年11月にチャイコフスキーが亡くなると、追悼のために「悲しみの三重奏曲第2番」を発表するなど、その天才ぶりは輝かしいものでした。

ところが1897年、「交響曲第1番」の初演が不評をかったことで、人一倍神経質なラフマニノフはひどい神経衰弱に陥り、3年以上もの間苦しみぬきました。この苦境を救ったのはニコライ・ダールという精神科医でした。3か月間一種の暗示療法を連日続けるうち快方にむかい、再起をあきらめていた気持ちに、ふたたび激しい創作意欲が燃え上がり、「ピアノ協奏曲第2番」に着手すると、1901年に完成。この年の11月、モスクワで自身の独奏でモスクワ・フィルハーモニーによって初演されると大絶賛をあび、1904年には、グリンカ賞の栄誉に輝いています。

以後ラフマニノフは、3年間モスクワのボリショイ劇場の指揮者をへて、ドレスデンに移って作曲に全力をそそぐいっぽう、アメリカやヨーロッパ各地を演奏旅行して多忙な音楽生活をすごしました。1917年にロシア革命がおこったことでフィンランドにのがれ、翌年にはアメリカに亡命しました。アメリカでは毎シーズン、100回以上もの演奏会をこなしたといわれています。革命後は一度も故国に帰ることなく、第2次世界大戦中にハリウッドで生涯を閉じました。3つの交響曲、4つのピアノ協奏曲、交響詩、管弦楽曲、ピアノソナタなど、生涯の作品は45ですが、今も好んで演奏される曲が多いのが特長です。


「3月28日にあった主なできごと」

1868年 ゴーリキー誕生…『どん底』『母』などの作品を通し、貧しい人々の生活の中にある不安や、社会や政治の不正をあばくなど 「社会主義リアリズム」 という新しい道を切り開いたロシアの作家ゴーリキーが生まれました。

1876年 廃刀令…軍人・警察官・大礼服着用者以外、刀を身につけることを禁止する「廃刀令」が公布されました。これを特権としていた士族の不満が高まる原因となりました。

1930年 内村鑑三死去…足尾鉱毒事件を非難したり日露戦争に反対するなど、キリスト教精神に基づき正義と平和のために生きた思想家 内村鑑三が亡くなりました。

1979年 スリーマイル島原発事故…アメリカ東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で、重大な原子力事故が発生しました。国際原子力事象評価尺度 (INES) ではレベル5となっています。
投稿日:2014年03月28日(金) 05:20

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)