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「天下の総代官」 大久保長安

今日4月25日は、戦国時代の甲斐武田家に仕え、武田滅亡後は徳川家の家臣となり、のちに鉱山開発などの業績が認められ、江戸幕府の奉行にまでのぼりつめた大久保長安(おおくぼ ながやす)が、1613年に亡くなった日です。

1545年、武田信玄おかかえの猿楽師の子として甲斐(山梨)に生まれた長安は、武田領内にある黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事しました。信玄没後は武田勝頼に仕えるものの、長篠の戦いに敗れ、1582年、織田信長・徳川家康連合軍の侵入(甲州征伐)によって武田家が滅ぶと、長安は家康にしたがうことになりました。

長安は家康の家臣・大久保忠隣(ただちか)の与力に任じられ、大久保姓を授けられ、本能寺の変で信長没後に家康の領地となった甲斐国の民政を命じられました。長安は、釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発などに尽力し、わずか数年で甲斐国の内政を再建したといわれています。

1590年の小田原征伐後、家康が関東に移ると長安は国奉行なみ代官に抜てきされ、1591年には武蔵国八王子に陣屋を設けられて、8000石の所領を与えられました。武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められると、軍事の拠点として周辺を支配、1599年には同心を倍に増やすことを家康に許され、八王子千人同心としました。

1600年、関ヶ原の戦いが起こると、徳川秀忠率いる徳川軍の後背役を務め、1601年に徳川家の直轄領となった石見(いわみ=島根県)銀山奉行となって銀の産出量を倍にすると、1603年には佐渡奉行に任じられるなど、甲州流の採掘法に南蛮流の技術を取り入れた長安の手腕は驚異的で、全国30か所以上もの鉱山から金銀を採掘するのに成功しました。いっぽう交通網を整備して東海道、中山道の宿駅制度を確立したほか、東海道、中山道、北陸道に一里塚を築造して交通行政の管轄をしたり、豪商角倉了以とともに、天竜川、富士川、千曲川を開発して河川交通の整備にかかわったほか、江戸城の改築、名古屋城築城にも大きな手腕をふるいました。

こうして長安の権勢は強大となり、諸大名との人脈も広く「天下の総代官」といわれて、大久保忠隣を中心とした大久保派を幕府内に形成すると、本多正信を中心とする家康側近グループと幕政の権勢をめぐって争うようになりました。

長安没後は悲惨で、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をした疑い、ポルトガルと連合して幕府転覆をはかる計画をしていたという理由で、長安の7人の男児は全員処刑され、一族や縁故者の処罰、長安を庇護してきた大久保忠隣らも失脚しました(大久保長安事件)。家康は、埋葬されていた長安の遺体を掘り起こし、駿府城下の安倍川川原でさらし首にしました。

しかし近年では、長安の不正蓄財や幕府転覆計画は本多正信・正純父子のでっち上げで、長安の財力と権勢を警戒した徳川家による「粛清」と、不正を行いやすい他の代官に対する「見せしめ」という説が有力となっています。


「4月25日にあった主なできごと」

1599年 クロンウェル誕生…イギリス清教徒革命で、議会を率いて王党派を破り、国王を処刑して独裁政治を行ったクロンウェルが生れました。

1840年 チャイコフスキー誕生…『白鳥の湖』『くるみわり人形』などのバレー組曲をはじめ、交響曲『悲愴』など数々の名曲を残したチャイコフスキーが生れました。

1868年 近藤勇死去…江戸幕末期に「新選組の局長」として幕府側に立って活躍した近藤勇が亡くなりました。

1953年 DNAの構造…イギリスの科学誌『ネイチャー』に、英米の科学者二人がDNA(デオキシリボ核酸)が、生物の細胞にめずらしい構造をもっていることを発表しました。この発見により、生物学は大きく発展、最近では犯罪捜査の犯人割り出しや、親子など血縁の鑑定などに、DNA鑑定が威力を発揮しています。
投稿日:2014年04月25日(金) 05:31

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)