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「世界大恐慌」 に敗れたフーバー

今日10月20日は、歴代のアメリカ大統領たちに能力を高く評価され、第31代大統領を務めたフーバーが1964年に亡くなった日です。

1874年、アイオワ州ウェストブランチに鍛冶屋の子として生まれたハーバート・フーバーは、9歳のころまでに両親を失い、おじ夫妻に育てられました。15歳で簿記とタイピングをマスターして独立すると、夜にはビジネススクールに通うなど苦学して1891年、カリフォルニア州に新設したばかりのスタンフォード大学に入学し、採鉱学を学びました。卒業後に、オーストラリアの鉱山で鉱山技師として働き始め、その後中国で鉱山の開発に従事するなど、1913年まで海外での鉱山開発に当たり、経営面でも成功して、世界屈指の鉱山事業家になりました。

第一次世界大戦時には、海外アメリカ救済委員会の委員長となって、ベルギー救済機関を組織して食糧供給を実施して名声をあげ、1917年にはその実務的手腕をウィルソン大統領に買われて、食糧庁長官として国家食物管理に当たりました。1921年からは、ヘーディング大統領の商務長官となり、ロシア革命後の混乱で飢饉で苦しむソ連や大戦後のドイツへ食糧支援を行ったことで、ニューヨーク・タイムズは「10人の最も重要なアメリカ人」にフーバーを選んでいます。続くクーリッジ大統領の政権でも商務長官を担当し、企業が成長し、貿易を増やすための政策を次々に打ち出して、アメリカの繁栄に大いに貢献しました。

1928年、大統領選挙に共和党から立候補したフーバーは、「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を」というスローガンを掲げて圧勝、翌年第31代大統領に就任したときは「アメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利日に近づいている」と語りました。しかしその見通しとは異なり、わずか半年後の1929年10月の経済恐慌(世界大恐慌)で、未曾有の大不況に突入してしまいました。フーバーは、融資した資金の返済を1年間猶予する「フーバーモラトリアム」を実施すれば不景気は1年ほどで自然に回復すると考え、国内的には政府による経済介入を最小限に抑える政策をとったことは、世界恐慌をますます深刻化させ、失業者救済事業や復興金融公社の設立などに手をつけたものの、効果はあがりませんでした。

こうして、フーバーは、1932年の大統領選に出馬しましたが、対立候補の民主党フランクリン・ルーズベルト(第32代大統領)に40州以上で敗北するという歴史的大敗を喫し、1933年の任期満了をもって一時引退します。フーバーは、ルーズベルトとは相いれることはありませんでしたが、次のトルーマン大統領のもとでは、世界の食糧事情の改善、難民救済、行政改革に力を貸しました。

なお、1946年5月に占領下の日本を視察したフーバーは、GHQのマッカーサーと会談し、「太平洋戦争は、ルーズベルトが対独戦に参戦する口実を作るため、開戦前の1941年7月に在米日本資産の凍結などの経済制裁を行い、日本を破滅的な戦争に引きずり込んだ……」と語ったといわれています。


「10月20日にあった主なできごと」

1180年 富士川の合戦…源頼朝率いる源氏と平氏軍が駿河の富士川で合戦を行いました。この戦いで、平氏軍は水鳥が飛びったった水音を夜襲と勘違いして敗走しました。

1856年 二宮尊徳死去…幼い頃に両親を失いながらも刻苦して小田原藩士となり、各地の農村の復興や改革につくした江戸後期の農政家・二宮尊徳が亡くなりました。

1879年 河上肇誕生…『貧乏物語』『資本論入門』『自叙伝』などの著作で知られ、日本におけるマルクス主義の考えを推し進めた経済学者の河上肇が生まれました。

1967年 吉田茂死去…太平洋戦争敗戦の翌年に首相に就任、以来5回にわたって首相をつとめ、親米政策を推進して日米講和条約、日米安保条約を締結した吉田茂が亡くなりました。
投稿日:2014年10月20日(月) 05:48

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)