「子どもワールド図書館」の初版が刊行されてから、25年以上が経過しましたが、この間の最大の変貌は、前回記した「東西ドイツの統一」、そして1991年ソビエト連邦(ソ連)が、崩壊したことだといってよいでしょう。 「子どもワールド図書館」第22巻「ソビエト」(1) には、ソビエト連邦(ソ連) が、どのような経過をたどって、世界で初めて社会主義国となったかを次のように記しています。
前回と一部重複しますが、ソ連の崩壊の経過を、やや詳しくたどってみることにしましょう。
ペレストロイカ 1985年、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、政治、経済、社会の改革を推進しました。この改革を「ペレストロイカ」とよんでいます。その背景に、ソ連国内の経済のいきづまりと、国民の共産党不信があり、その危機意識が、大改革をよぎなくさせたといってよいかもしれません。ペレストロイカは、憲法を改正し、共産党以外の政党をみとめ、大統領制を導入するところまで進んでいきました。1930年以降、共産党の一党独裁しか認めず、そのため共産党の命令を守らなかったり、批判したりすることは厳しく罰せられるという自由のない社会で、特権官僚が国を支配し、支配者に都合のよいことしか国民に知らされなかったのです。
ゴルバチョフは、国民の不信をなくすために、さまざまな情報をありのまま国民に知らせることからはじめました。これを、「グラスノスチ」といいます。その結果、ソ連社会内部の欠陥や矛盾が明らかにされ、共産党への批判はさらに強まり、ペレストロイカの徹底を求める国民の声は、東欧諸国までもまきこんで一挙に広まり、東欧諸国のどの国でも共産党の権威は失墜していきました。
ソ連は、1990年3月、臨時人民代議員大会をひらいて、国家元首を大統領にすること、共産党の一党独裁をやめること、個人の土地や財産の所有、経済活動を認めることなどを定めた新憲法を採択し、初代大統領にゴルバチョフを選びました。
バルト3国 バルト海に面しているエストニア、ラトビア、リトアニアをバルト3国と呼んでいます。帝政ロシアの時代にロシア領にされ、ロシア革命後の1918年にいったん独立しましたが、1940年にソ連に吸収されました。人種的にはエストニアはフィンランド、ラトビアとリストニアはポーランドに近く、生活水準もソ連の平均を大きくうわまわっていて、ロシア人を主体とする中央支配に強い反発心をもっていました。ゴルバチョフの掲げるペロストロイカやグラスノスチをきっかけに、これまでおさえられてきた民族感情が燃え上がり、ソ連から分離独立する運動を展開しはじめました。ソ連中央は、はじめのうちは話し合いによる解決をめざしていましたが、ペロストライカのいきづまりもあって、軍隊によるおさえこみをはじめました。そんな武力介入に対し、G7(イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・日本・カナダ・イタリアの7か国蔵相会議) がソ連に対して緊急援助を凍結するなど、世界中からの抗議行動がおこりました。
独立国家共同体(CIS) ソ連に劇的変化がおきたのは、1991年8月におきた保守派によるクーデターの失敗がきっかけでした。クーデター失敗後に解放されたゴルバチョフ大統領は、クーデターに反対しなかったソ連共産党中央委員会に対し、党を解散するよう求め、みずから党書記長職を辞任する意思を表明しました。これによって、ソ連共産党は事実上解散されることになりました。そして翌9月、ソ連国家評議会は、バルト3国の独立を承認する決議を採択し、バルト3国は51年ぶりに完全独立をはたしました。
これがソ連邦崩壊の第1歩となり、1991年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラブ系3共和国が「独立国家共同体」(CIS) を創設、まもなくカザフスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギス、モルドバ、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタンの8か国が加わり、1993年グルジアも加盟し、バルト3国を除く旧ソ連の12の共和国が、EU(ヨーロッパ連合) 型のゆるやかな国家連合体を形成しています。(その後トルクメニスタンは永世中立国を宣言したため準加盟国)
その後の旧ソビエト連邦 バルト3国は、2004年にそろってEU(ヨーロッパ連合) とNATO(北大西洋条約機構) に加盟しました。2007年には通貨もユーロとなる予定です。ソ連の崩壊を契機に誕生したCISの本部は、ベラルーシの首都ミンスクにおいていますが、中心は世界一の領土をもつロシア連邦で、旧ソ連がもっていた国際的な権利を基本的に継承しているのをはじめ、軍事施設や核やミサイルなどの軍事関連を一括管理しています。
なお、現在、ロシア連邦は、ブラジル、インド、中国と並んで「BRICs」(ブリックス)とよばれる新興経済国群の一角にあげられています。