山にとりかこまれた地方に育つ子どもたちは、海を知らない。海をゆく大きな船も、海べの生き物のことも知らない。また、ライオンやぞう、新幹線や高速道路、飛行機がどういうものかも知らない。こういうものを知るためには、じっさいに海岸につれていったり、動物園へでかけたり、新幹線にのったり、自動車で高速道路を走ったり、飛行場を訪れたりする体験をしなくてはならない。
ところが、海や船や魚、ライオンやぞう、新幹線、高速道路、飛行機などをテーマにした絵本を与えれば、容易に体験させることかできる。ただしこれは直接の体験ではなく「間接体験」だ。間接体験ならば、宇宙へもいけるし、原始人にあうことだってできる。絵本の世界は、まさにそんな「間接体験」の宝庫といってよい。
テレビでも間接体験はできる。ただしテレビは、もっと見ていたい、もう一度見たいと思っても画面は一瞬にして消えてしまう。子どもたちにとって、興味をそそられた時が大事なのだから、時間に左右されるテレビのこんな宿命は、大きな欠点だろう。
たとえば、カブトムシを「知っている」という子どもが3人いるとする。そのうちの1人はテレビを見て知った子ども、1人は絵本を見て知った子ども、もう1人は実際に手にしたことのある子ども。この中で、カブトムシに対し最も印象の弱いのはテレビで知った子どもだという。もっと見ていたいと思っても映像はすでに消えてしまうし、刺激の強い映像が次に出てくれば、それだけでもカブトムシの印象は弱くなってしまうからだ。
3人のうちでいちばん印象の強いのは、実際カブトムシを手にしたことのある子どもだ。しかし印象は強くとも、それ以上の発展がない。つまり、カブトムシがどのように育ち、どのようにくらし何を食べて生きているのか、どんな種類がいるのか、どんな仲間がいるのかというようなことはわからない。
大切なことは、ひとつのテーマや体験から興味を持続させ、発展させることだろう。適切な絵本はそこまで導いてくれる。そして絵本は、いつまでもじっと眺めていることができるし、見たいときに繰りかえし取り出せる。だから、カブトムシを手にしたことのある子どもに絵本を与えたり、絵本でカブトムシを知って興味をおぼえた子どもに実際のカブトムシを見せれば、その印象はさらに深いものになる。いずれの場合でも、絵本のなかだちが必要だということだ。
(雑木林をかけめぐると、クヌギの木の高いところにカブトムシがいる。石をなげてみると、パッと固い羽の下からうすい羽を広げてとんでいった。そのうちの1匹が落ちてきて、ギュッとつかむと黄色い汁を出した。落ち葉の下の土を掘ると、大きくて白くてやわらかい虫がでてきて、それがカブトムシの幼虫だった)というような知り方が理想的なのだろうが、都会に住む子どもたちにはとてもむずかしい。だからこそ情報や知識や生活の空間を、いつでも、どこまでも拡げてくれる絵本の世界は、まさしく幼児の成長にとって欠くべからざる存在だ。
幼児期から少年期、青年期になるにしたがい、世界はどんどん拡がり、言葉だけで間接体験を積み重ねていかなくてはならない。そんな点からも、絵本で間接体験を積む訓練は、ますます重要な意味を持つはずである。