「日本読書クラブカタログ(本の価値と楽しみ)」の第10章「文学」の項を紹介してみよう。
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● 大いなる遺産としての文学全集
毎年、数えきれないほどの文学作品が、出版されています。日本の現代小説、推理小説、時代小説、世界の翻訳小説などとさまざまですが、これらの新しい作品群にまじって、くり返しくり返し出版されている文学の森があります。
それは、日本文学全集、世界文学全集、個人文学全集、古典文学全集などの、全集類です。たとえば日本、世界の文学全集は、過去20年来、それぞれ、つねに5〜8種類ずつの刊行がつづけられ、いずれの全集も、一定の普及をみています。新しい文学作品がどんなにあふれても、文学全集には、大いなる文化遺産としての、かけがえのない固有の価値があるからです。
それは、全集に収められている文学作品が、いずれも一読の価値のある名作ばかりだ、ということにほかなりませんが、その名作のひとつひとつが、いかに 「選ばれた」 ものであるかは、新しい文学作品の氾らん状況と対比してみると、たいへんよくわかります。つまり、いま、どれほど多くの文学作品が出版されていても、20年後、30年後の文学全集のなかに加えられる作品は、ほんの、ひとにぎりにすぎないということです。
作家だって同じです。きびしい言いかたをすれば、20年後、30年後まで、まして没後まで名をのこすことのできる作家は、やはり、ほんの一握りです。いま、かりに活躍中の一流二流の作家が200人いるとしても、のちの世の文学全集に名をとどめるのは、おそらく、そのなかの10人前後にすぎないのではないでしょうか。日本文学全集についていえば、日本を代表する名作のひとつとして全集に加えられることは、それほど、たいへんなことなのです。
● ほとばしりでている作家の心
では、全集に収められているような作品は、なぜ、いつまでも読みつがれるのでしょうか。それは名作だから……といってしまえば、それまでですが、これを正確にいえば、永遠に変わることのない真理・真実の追求が、名作のすべてに秘められているからではないでしょうか。このことは、名作のいくつかをひろってみるだけで、すぐにわかります。
たとえば、夏目激石の 「こころ」 にえがかれている[知識人のエゴイズム]、田山花袋の 「田舎教師」 につづられている[一人の青年の、自我へのめざめと貧しさのための苦しみ]、太宰治の 「人間失格」 に語られている[自己の真実をまもって純粋に生きようとする人間の悲しみ]、モーパッサンの 「女の一生」 にえがかれている[信じるものにつぎつぎに裏ぎられていく女の、はかなさ]、ヘッセの 「車輪の下」 に問われている[周囲の期待にゆがめられ、おしつぶされていく少年の悲劇]。これらは、地球上に人間があるかぎり永遠にのしかかってくる事実であり、「されば、人間どう生きるか」 が、深く深く問いつめられています。
もちろん、後世に残ることのない小説であっても、やはりその多くは 「人間の生き方」 をえがいています。しかし、一般の小説と名作とでは、作家の心からほとばしりでたものが、ちがうのです。いうなれば、その作品が芸術であるか、ないかということになるのでしょうが、わかりやすくいえば、どんなに大ベストセラーになった小説でも、それが、すこしでも読者にこびたものであったら、それは芸術ではありません。ほんとうの芸術ではない小説は、けっしてながく読みつがれることはなく、このことは、一時的に話題にはなっても、数年で消えてしまった小説のいかに多いかが物語っています。
要するに、文学全集に収められている作品は、だれもが読む価値があるのです。価値があるというより、真実を求めて生きる人間であれば 「読むべきだ」 といっても、いいすぎではないでしょう。たった1編の作品でも、その人の生き方、考え方をすっかり変えてしまうほどのものを、もっているのですから。
● 手もとにそろえて読み返す
しかし、文学全集の読み方に、ひとつの形があるわけではありません。多くの全集の作品収録は作家別になっていますから、自分の好きな作家のものから、ひろい読みを始めるのもいいでしょう。また、なにがなんでも1巻からくいついてみるのも、いきなり自分の好きな作家の個人全集を買い求めて、片はしから読んでみるのもいいでしょう。そして、心に強くひびく作品にであったら、その作品を、月日をおいて2度や3度は読み返してみることです。読み返すたびに、その作品のなかに新しいものを発見し、作品をとおして、偉大な作家と対話できるようにもなります。
名作を集めた文学全集こそは、それこそ、親から子、孫へと贈りつぐことができます。時代が経ても、その文学全集が放つ芳香は、けっして消えることはないのですから。
(日本読書クラブ推薦図書の項は省略)