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「朝日新聞」 と村山龍平

今日11月24日は、「朝日新聞」を日本を代表する世界的な大新聞に発展させた村山龍平(むらやま りょうへい)が、1933年に亡くなった日です。

1850年、伊勢国田丸(現・三重県玉城町)に紀州藩士の子に生まれた村山龍平は、幕末激動期の1867年から田丸城に務めましたが、1871年に一家とともに大阪に移住すると、父と西洋雑貨商を営みました。1878年に大阪商法会議所の議員に選ばれ、1879年に同業者の木村平八・騰(のぼる)父子が「大阪朝日新聞」を創刊すると、これを支援しました。

1881年に木村父子の要請により、上野理一と共同出資して実質的な社主となって新聞事業に専念すると、上野とともに大衆向けの小新聞だった「大阪朝日新聞」を、関西中心ながら中新聞に育てあげました。さらに1888年には「めざまし新聞」を買収し「東京朝日新聞」を創刊して東京に進出、1908年には、東西の両新聞を合併させると、1年ごとに上野と社長を交代し、海外に特派員を派遣したり海外通信網の確立強化に先鞭をつけました。印刷面でも新しい機械を率先して導入、大量生産を可能にし、各界の有能な人物を抜擢して登用するなど、つねに積極政策をとりました。やがて「朝日新聞」は、「毎日新聞」とともに日本を代表する世界的な大新聞としての地位を確立しました。

その間村山は、1891年に第1回衆議院議員総選挙補欠選挙で衆議院議員に初当選後、第2回、第3回にも当選して衆議院議員を通算3期務めた他、大阪府会議員、大阪市会議員などを歴任し、1930年には貴族院勅選議員となりました。また、日本美術収集家、茶人としても知られています。

なお、朝日新聞社長時代の1915年、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の創設を決断、第1回大会では羽織袴姿で開会式の始球式をつとめました。その功績により、誕生100周年でもある2015年の今年、野球殿堂特別表彰者に選出されました。


「11月24日にあった主なできごと」

1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍、最後の元老政治家といわれた西園寺公望が亡くなりました。

1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を敢行しました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。
投稿日:2015年11月24日(火) 05:15

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)