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「労働党を率いた」 マクドナルド

今日11月9日は、イギリスの2大政党のひとつを形成する「労働党」を育て上げ、初の労働党出身の首相となったマクドナルドが、1937年に亡くなった日です。

1866年、スコットランド地方マルシウムの貧しい農家に生まれたラムゼイ・マクドナルドは、18歳のときロンドンへ出ると、教師やジャーナリストなど職を転々とするうち社会主義への関心を深めました。1886年、社会改革をおだやかにめざす社会主義団体「フェビアン協会」に入り、1894年には鉱山労働者出身の政治家ケア・ハーディのつくった独立労働党に入党しました。

1900年、労働者代表委員会が結成されると、34歳の若さで書記長に選ばれ、1906年の選挙で下院議員になり、労働代表委員会を「労働党」と改称しました。労働者の保障や産業国有化などを主張し、議会・選挙・法を通じて穏健的に改革を達成させることをめざします。そんな姿勢が国民に好意的に受け入れられ、1911年には下院で29議席を獲得、マクドナルドは労働党党首になりました。

1914年に第一次世界大戦が勃発してイギリスは参戦するものの、マクドナルドは戦争反対の態度を貫き通したため、売国奴とののしられて党首を辞任、1918年の選挙では落選して議席を失いました。しかし、大戦中のイギリスが、アメリカからの多額の戦債を抱えたために不況となって失業者を大量に生んだこともあり、1922年にマクドナルドは下院に復帰、ふたたび党首に選ばれました。

労働党は、1924年の選挙で第2党に進出し、自由党との連立ながら、マクドナルドを首相とする初の労働党内閣が誕生しました(第1次マクドナルド内閣)。ところが、反ソ・反共の熱が高まり、ソ連を承認した労働党は大打撃を受けて、わずか9か月の短命に終わってしまいました。

1929年の総選挙で、第1党に躍り出た労働党は、労働党の単独政権である第2次マクドナルド内閣を誕生させると、1930年の「ロンドン軍縮会議」で、補助艦保有比率を英国・米国・日本の比率を10:10:7とする条約締結を成功させ、インド独立運動の指導者と会議を開くなど、前進的成果をあげました。しかし前年10月におこったアメリカ発の世界経済恐慌の波がイギリスにも迫り、不景気に対する政策が、自ら育てた労働党から非難され、1931年に総辞職に追いこまれてしまいました。

マクドナルドは、国王ジョージ5世の要請を取りつけて、恐慌による経済危機から脱出するため、彼を支持するマクドナルド派と、保守党、自由党とともにマクドナルド挙国一致内閣を誕生させました。労働党はマクドナルドを裏切り者と呼び、ついに彼を党除名処分としましたが、1931年10月の総選挙では、マクドナルド側が615の議席のうち554議席を獲得したのに対し、労働党はわずか52名の少数政党に転落してしまいました。

その後マクドナルドは、1935年6月、病気のため首相を保守党のボールドウィンにあとを譲って引退しました。


「11月9日にあった主なできごと」

1872年 太陽暦の採用…明治政府は、西欧の国ぐにならって太陽暦を採用しました。具体的には、明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることで、太陽暦(新暦)に切りかわりました。これまでの日本の暦は、月の満ち干の周期をもとにした太陰暦(旧暦)が使われていました。

1876年 野口英世誕生…黄熱病・梅毒・狂犬病・蛇毒などの細菌の研究に、大きな成果をあげた野口英世が生まれました。

1970年 ド・ゴール死去…フランス建国史上最も偉大な指導者のひとりと評価されている政治家ド・ゴールが亡くなりました。

1989年 ベルリンの壁崩壊…第2次世界大戦に敗れたドイツの首都だったベルリンは、ソ連を中心とする社会主義国が管理する「東ベルリン」と、アメリカ、イギリス、フランスの資本主義国が管理する「西ベルリン」に分断されました。さらに1949年には、ドイツという国も社会主義国の「東ドイツ」と、資本主義国の「西ドイツ」の2つに分かれてしまいました。1961年8月に作られた壁のために、行き来のできなくなった東西ベルリンでしたが、この日東ドイツ政府は通行を認めると発表。東西ドイツをへだてる象徴だった「ベルリンの壁」の崩壊がはじまりました。こうして、翌1990年10月3日にドイツは統一されました。
投稿日:2015年11月09日(月) 05:27

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)