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「治安警察法」 と清浦奎吾

今日11月5日は、明治期には司法行政を中心に活躍し、大正時代後期に第23代首相になったものの、ほぼ全閣僚を貴族院議員から選んだため、護憲三派に激しく非難され、わずか5か月で総辞職した政治家の清浦奎吾(きようら けいご)が、1942年に亡くなった日です。

1850年、今の熊本県山鹿市にある明照寺住職大久保家の5男に生まれた奎吾は、まもなく清浦家の養子となり、1865年から、今の大分県日田にあった漢学者の広瀬淡窓が主催する咸宜園に学びました。ここで知り合った野村盛秀が埼玉県令に任ぜられると、野村を頼って上京、1873年に埼玉県の役人になりました。1876年には司法省に転じて検事になると、太政官や内務省の小書記官、参事院議官補などを歴任し、この間に、ボアソナードのもとで治罪法(今の刑事訴訟法)の制定に関与しました。警視庁などの依頼で治罪法の講義をするうち、その講義録が『治罪法講義随聴随筆』という本になり、広く警察官に読まれました。

こうした活躍が、内務卿だった山県有朋の目にとまり、1884年に全国の警察を統括する内務省警保局長として、警察制度の整備と言論・出版の取り締まりをすすめ、頭角をあらわしていきます。

1892年、第2次伊藤内閣のもとで山県が司法大臣に就任すると司法次官に任ぜられ、第2次松方内閣、第2次山県内閣、第1次桂内閣のもとでは司法大臣を歴任し、山県内閣では労働運動を取り締まる「治安警察法」を制定したことはよく知られています。1891年4月には貴族院勅選議員に任じられてヨーロッパを視察、1904〜5年の日露戦争中は、農商務大臣として、戦時下の商工業の振興や農業の改良事業を推進しました。

1906年天皇の相談にあずかる最高官ともいえる枢密顧問官になると、のちに枢密院議長に就任しました。
1914年にはシーメンス事件のあおりで倒れた第1次山本内閣の後を受けて、清浦は組閣の大命を受けましたが、海軍首脳との折り合いがつかず、海軍大臣を得られずに断念しました。鰻ドンブリの香のみ嗅いで食べさせてもらえなかったとして、世間ではこれを「鰻香内閣」と呼びました。

1924年1月、第2次山本内閣が虎ノ門事件(虎ノ門外において皇太子裕仁親王[後の昭和天皇]が社会主義者から狙撃を受けた事件)の責任をとって総辞職すると、中立的な内閣の出現を望む西園寺公望の推薦によって、組閣の大命はふたたび清浦のもとに降下しました。清浦は、貴族院の勢力を基礎に内閣を組織しましたが、閣僚のほとんどに貴族院議員をあてたことから、新聞や政党はこれを清浦「特権内閣」と攻撃しました。やがて、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の護憲三派による倒閣運動 (1912年に桂内閣を倒した第1次護憲運動に対し、第2次護憲運動と呼ばれている) の矢面にたたされ、衆議院議員選挙に敗北して、同年6月に総辞職しました。

その後、清浦は政治の第一線をしりぞきましたが、重臣の一人として重要な国務の決定に当たり、1941年の重臣会議で東条英機の後継首相擁立を承認したのを最後に政治活動から引退しました。なお、没後50年の1992年、清浦の生家である山鹿市明照寺の隣に清浦記念館が建てられています。


「11月5日にあった主なできごと」

1688年 名誉革命起こる…国王ジェームズ2世に反発したイギリス議会はクーデターを起こし、次の国王としてウイリアム3世(オランダ総督オレンジ公)とメアリー2世夫妻を招き、夫妻は軍隊を率いてイギリスへ上陸しました。ジェームズ2世はフランスに亡命し、流血のないまま新王が即位したため、「名誉革命」といわれています。

1922年 ツタンカーメン王墓発見…イギリスの考古学者カーターが、古代エジプト18王朝(BC1340年頃)18歳で亡くなったツタンカーメン王の墓を発見しました。3000年以上の歴史を経てもほとんど盗掘を受けておらず、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめ、副葬品の数々をほぼ完全な形で出土しました。そのほとんどは「カイロ博物館」に展示されています。
投稿日:2015年11月05日(木) 05:21

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)