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「社会福祉国家めざした」 アトリー

今日10月8日は、チャーチルの保守党を破り、労働党内閣の首相として第2次世界大戦後のイギリスを「福祉国家」に導いたアトリーが、1967年に亡くなった日です。

1883年、ロンドンの裕福な家に生まれたクレメント・アトリーは、オックスフォード大学卒業後に弁護士となり、ロンドンのイースト・エンドにあるスラム街を訪れ、セツルメントに関わったことが労働党入党のきっかけになりました。やがて、労働者クラブの理事となってスラム街に住みつき、貧しい人たちのために献身的に働きました。

第一次世界大戦では、ガリポリで負傷し、除隊後は政界に転じました。1919年に労働党出身者初の首長としてステップニーの市長となった後、1922年の総選挙にイースト・エンドから立候補して下院議員となり、引退まで連続当選をはたしています。

1924年に初めて労働党出身の首相としてマクドナルドが内閣を組織すると、陸軍次官や逓信相を務め、1935年には労働党党首に選出されました。第二次世界大戦中は、保守党のチャーチルと挙国一致連立内閣にくわわり、副首相として入閣すると、1945年5月の連立解消まで務めあげました。

ヨーロッパ戦線終結後初となる1945年7月の総選挙では、チャーチルの保守党193議席に対し、アトリーの労働党は381議席と圧勝、チャーチルはポツダム会談に参加中でしたが、7月25日のポツダム宣言発表後にただちに帰国、翌26日に内閣総辞職しました。労働党の勝利後、チャーチルが次期首相にアトリーを推していたことから、アトリーはバッキンガム宮殿を訪れ、国王ジョージ6世から組閣の命を拝すと、直ちにイギリス全権としてポツダム会談に参加しています。

1945〜51年の首相在任中のアトリーは、、第二次世界大戦で疲弊したイギリスの戦後復興を推進、ジョージ6世の反対を押し切って、労働党の公約だった石炭、電気、ガスなどの基幹産業の国有化、「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度の確立を行い、社会主義政策を次々と実現していきました。外交面では、アジアにおける長年のイギリスの植民地であったインド、パキスタン、セイロン(現スリランカ)、ビルマ(現ミャンマー)の独立を承認し、大英帝国の清算に手を貸しました。しかし、1947年の寒波で国内は大きな打撃を受け、さらに戦後復興のためにアメリカ合衆国が示したマーシャル・プランを受け入れるなど、国際経済における主導権は失われました。

また、インド、パキスタンでは宗教問題から分離独立となり、委任統治領だったパレスチナではユダヤ人とアラブ人の対立に対処しきれず、その解決を国際連合に委ねるなど、過去における植民地支配、分割統治のつめ跡を残す結果となりました。

さらに1951年4月、再軍備予算増額のため、福祉予算が削られると、労働相が若手閣僚とともに辞任したことで、党内対立をまとめきれず、同年10月に行われた総選挙でチャーチルから代わったイーデン率いる保守党に敗北、12月に党首を辞任、1955年には労働党の党首も退きましたが、エリザベス女王より伯爵(初代アトリー伯)の爵位を授かり、以後は貴族院議員となりました。


「10月8日にあった主なできごと」

1856年 アロー号事件…中国の広州湾外で、清の役人がイギリス船アロー号を立ち入り検査し、船員12名を海賊容疑で逮捕しました。イギリスは清に厳重に抗議、宣教師を殺害されたとするフランスと連合して、1857年から1860年にかけて、清と英仏連合軍とが戦う「アロー戦争」となりました。最終的に北京条約で終結、清の半植民地化が決定的なものとなりました。

1871年 安藤信正死去…幕末期に、暗殺された井伊直弼のあとを受けて幕政を主導し、皇女和宮の降嫁を実現させるなど、幕府の権威失墜防止につとめた安藤信正が亡くなりました。
投稿日:2015年10月08日(木) 05:41

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)