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「大いなる駄々っ子」 大谷光瑞

今日10月5日は、3度にわたる中央アジア探検を試み、仏教的アジア主義を提唱した浄土真宗西本願寺第22世法主(ほっす)の大谷光瑞(おおたに こうずい)が、1948年に亡くなった日です。

1876年、第21世大谷光尊の長男として京都に生れた大谷光瑞は、1886年に上京して学習院に入学するものの3年余りで中退、神田の英学校に学ぶもまた中退して京都へもどると、教内外の学者からの個人教授と独学により、広い教養を身につけました。1899年、はじめての海外旅行に中国を訪れ、同年末ヨーロッパ遊学を志しインドの仏跡を巡拝しながらロンドンへ渡って多方面の学芸を学び、帰路は西本願寺の留学生とともに、ヨーロッパ各国の宗教事情の視察を行いました。

一連の旅行の中で光瑞は、清国の衰退とともに中央アジアが、インドから北上するイギリス、西トルキスタンから東進するロシアなど、帝国主義列強の争奪の対象になっていることに気づきました。みずから探検隊を率いて西域に赴くことを決意し、1902年8月、教団活動の一環としてロシアからインドへ渡り、仏蹟の発掘調査に当たりました。1903年1月には、ラージギル郊外で長らく位置が判らなかった釈迦ゆかりの霊鷲山を発見する成果をあげました。

しかし、まもなく父が死去し、法主を継職するため帰国しましたが、探検や調査活動は1904年まで続けられました。これが第1次大谷探検隊で、光瑞はその後も探検を続行させ、1914年まで計3回にわたる探検・発掘調査を実施しました。その結果、昔のシルクロード遺跡、敦煌、トルファン、ローラン、チベットなどからの収集品は数万点にも及びました。

法主としては教団の近代化に努め、1908年には神戸六甲山中腹に豪邸二楽荘を建て、シナ室、インド室、アラビア室などを作って探検収集品の公開展示をしたり、若い人材を育てるためと邸内に英才教育のための武庫中学(今の甲南大理学部)を開設して自ら教壇に立ちました。またこの地に、園芸試験所、測候所、印刷所なども設置しました。

ところが、これらの光瑞の諸事業による膨大な出費により、教団は大正期に入ると数百万円の負債をつくったため反対派が勢いづき、西本願寺内の疑獄事件もからんで、光瑞は財政破たんの責任をとって1914年に西本願寺を去りました。

その後の光瑞は、定住の地を持たず、1916年以降は、南洋、中国、トルコの各地で農園などを経営したり、堂々たる体躯による弁舌さわやかな講演、著述にも優れ、経典や仏教学では専門家の域にたっするもので「大いなる駄々っ子」と評されました。また、昭和初期には、仏教に基づく「大アジア主義」を提唱し、政治・外交面で南進論に立つ独自の「興亜計画」を発表しました。日中戦争の際は、近衛・小磯両内閣の参議や顧問として政治にも参加しています。

なお、大谷探検隊が収集した膨大な資料は、龍谷大学図書館が9000点を所蔵するほか、ソウルや旅順、東京国立博物館などさまざまな場所に所蔵されています。


「10月5日にあった主なできごと」

528年 達磨死去…「七転び八起」のことわざでおなじみのダルマさんのモデルとなった中国禅宗の開祖・達磨が亡くなりました。

1274年 文永の役…元(今の中国)の皇帝フビライは日本を属国にしようと、2万人の軍隊と朝鮮(高麗)軍1万5千人を率いて対馬を占領後、博多に上陸しました。しかし、おりからの嵐にあって朝鮮へ引き上げました。1281年にも再上陸(弘安の役)を企てますが、このときも嵐にあって失敗。この2度にわたる元の襲来を「元寇(げんこう)」とよび、人々はこれを「神風が吹いた」と語りついできました。

1392年 南北朝が合一…北朝と南朝に分かれて対立していた朝廷でしたが、「明徳の和約」によって交互に天皇を出すことを約束、50年にわたる南北朝の争いを終えました。
投稿日:2015年10月05日(月) 05:02

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)