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『オリンピア』 のリーフェンシュタール

今日9月8日は、ベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』が絶賛されたものの「ナチスの協力者」として逮捕されるなど、生涯にわたり非難を浴びせられ続けたドイツの女流監督・写真家のリーフェンシュタールが、 2003年に亡くなった日です。

1902年、ベルリンの裕福な家庭に生まれたレニ・リーフェンシュタールは、1923年、表現ダンスのダンサーとしてデビューをはたすと、ドイツ舞踏界を代表するスターとして注目されました。ところが、ダンスのステージで膝を負傷して舞踏家の道を断念し映画界に転身すると、アルノルト・ファンク監督の山岳映画の主演女優として多くのファンを魅了しました。やがて演出にも才能を発揮するようになり、1932年に初の監督と主演をつとめた映画『青の光』が、ベネチア国際映画祭で銀賞を受賞、まだ女流監督の少なかった1930年代に、国際的な名声を確立しました。

ナチスが政権を獲得した1933年、リーフェンシュタールの才能を高く評価して庇護したヒトラーは、1934年に党大会の映画『信念の勝利』を手がけさせ、この映画は国外でも高い評価を受け、1937年のパリ国際博覧会で金メダルを獲得しました。さらに、国際オリンピック委員会のオットー・マイヤーから依頼を受けて撮影したベルリンオリンピック(1936年)の記録映画『オリンピア』(第1部「民族の祭典」、第2部「美の祭典」)は、ベネツィア映画祭最高賞を受賞しました。この作品の制作にあたってリーフェンシュタールは、170人ものスタッフを統率し、迫力ある場面を撮るためにフィールドにカメラ用の穴を掘ったり、選手たちに競技の模様を再現させるなど、スポーツ記録映画のテクニックを確立しました。

リーフェンシュタールは、素材が何であれ、映像の美を追求する姿勢を貫いていきましたが、ゲッペルス宣伝相の下で量産されていたナチス宣伝のための劇映画より、はるかに完成度の高い作品を作ってきたために、かえってドイツ民族の優秀性が評価される運命にあったのでしょう。そのため敗戦後は、ナチスの協力者として逮捕され、1948年まで拘束されました。さらに、著名人であったがために、生涯にわたって批判を浴び続けることになったのは不幸なことでした。

1962年、アフリカ・スーダンのヌバ族に出会い、10年間取材を続けて1973年に10か国で写真集『ヌバ』を出版、写真家としてセンセーショナルな再起を遂げました。また同年、71歳でスクーバダイビングのライセンスを取得し、水中写真に挑戦して2冊の写真集を発表しています。

晩年もアフリカを何度も訪問していましたが、2000年98歳で訪れた内戦中のスーダンで、搭乗していたヘリコプターが攻撃を受けて墜落、負傷したものの一命を取りとめました。2002年には『原色の海』で現役の映画監督として復帰し、これが生涯で最後の映画作品となりました。そして翌2003年、長いあいだ助手を務めてきたホルスト・ケトナーと結婚、最期は彼にみとられながら、安らかな死を迎えたと伝えられています。


「9月8日にあった主なできごと」

1841年 ドボルザーク誕生…『スラブ舞曲』や『新世界より』などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠ドボルザークが生まれました。

1868年 元号「明治」…年号をこれまでの「慶応」(4年)から「明治」(元年)と改めました。同時に、今後は一天皇は一年号とする「一世一元の制」を定めました。

1951年 サンフランシスコ講和条約締結…第2次世界大戦で、無条件降伏をして連合国の占領下におかれていた日本国民は、1日も早い独立を願っていました。1950年に朝鮮戦争がはじまると、アメリカは日本を独立させて資本主義の仲間入りをさせようと、対日講和の早期実現を決意しました。そしてこの日、日本の全権大使吉田茂首相は、サンフランシスコで戦争に関連した48か国と講和条約に調印しました。同条約は1952年4月28日に発効し、日本は6年8か月にわたる占領を終えて、独立を回復しました。しかしこの時、アメリカとの間に「安全保障条約」を結んだことで、日本国内に700か所以上もの米軍基地がおかれるなど、本当の意味での独立国にはなりきれず、さまざまな波紋を残すことになりました。

1981年 湯川秀樹死去…「中間子」という電子のほぼ300倍もの質量をもつ素粒子のあることを、理論をもって証明したことで、1949年日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した湯川秀樹が亡くなりました。
投稿日:2015年09月08日(火) 05:37

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)