児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  『夜と霧』 のフランクル

『夜と霧』 のフランクル

今日9月2日は、ドイツ強制収容所の体験記録『夜と霧』をはじめ、『死と愛─実存分析入門』などを著したオーストリアの精神科医・心理学者のフランクルが、1997年に亡くなった日です。

1905年、ユダヤ人家系の子としてウィーンに生まれたビクトール・フランクルは、ウィーン大学在学中に、精神分析学を創始したフロイトやその弟子のアドラーに、精神医学を学びました。卒業後は同大学医学部精神科教授となり、ウィーン市立病院神経科部長を兼任しました。フロイト、アドラーに続く「第三ウィーン学派」の一人として注目され、独自の「実存分析」を唱えた精神科医・脳外科医として国内では良く知られる存在でした。1933年から、ウィーンの精神病院で女性の自殺患者部門の責任者を務めていましたが、1938年ナチスによるドイツのオーストリア併合で、ユダヤ人がドイツ人を治療することを禁じられ、任を解かれてしまいました。

1941年のある朝、フランクルはナチス当局から、軍司令部に出頭するよう命じられました。ナチスの「ユダヤ人狩り」は、1939年の第二次大戦勃発に先立つ1933年頃からドイツ周辺でひそかに進行しており、宣戦布告時には、ドイツ国内に六つの強制収容所がありました。その後2年ほどの間に、ポーランド、オーストリアなどの占領国内に新たな収容所が次々と増設されていました。しかし、最初の出頭命令時に、思いがけない執行猶予がフランクルに与えられました。接見したゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)に神経症や恐怖症についての説明をしているうちに興味を持たれ、数時間にわたって行われたそのカウンセリングが功を奏し、収容所への抑留は1年間延期されたのです。
 
フランクルはゲシュタポの管理下に置かれていたウィーンのユダヤ人病院の精神科に勤務することになり、時間の余裕を得たフランクルは、これまで自分が積み上げてきた事例をもとにした新たな理論をまとめたいと、執筆に取りかかりました。しかし、翌1942年9月頃、原稿が完成する前に、その日は来てしまいました。こうしてフランクルは、ポーランドのアウシュピッツなどの強制収容所へ家族とともに入れられ、両親、妻、2人の子どもはガス室などで死亡しました。フランクルはその間、速記記号で自らや周囲にいる囚人たちの精神状態を数十枚の紙に記録し、1945年4月、運よくアメリカ軍によって解放されたのでした。

1947年に出版された『夜と霧』のタイトルは、夜間などに霧のようにユダヤ人や政治犯を収容所に送りこむ姿を表したもので、フランクルのアウシュビィッツ到着から終戦による解放に至るまでの半年間の収容体験をつづったものです。日本での翻訳出版は1956年で、戦後復興期にあった日本人に大きな衝撃を与え、ベストセラーになりました。日本語を含め17カ国語に翻訳され、今も読みつがれています。発行部数は、20世紀内の英語版だけでも累計900万部以上といわれています。

フランクルは、収容所から解放された翌1946年、ウィーン市民大学で「なぜ私は生き抜いてこれたか」という3回にわたる連続講演を行いました。そこで、収容所の囚人は、生きる意味を失うと、どんな忠告や命令、懲罰にも反応しなくなって死んでいったこと、いっぽう愛する人が待っていたり、やりたい仕事が待っている人は、骨と皮になっても虐待されても生き延びようとしたこと。その体験から、人間が精神の崩壊から救われるのは、生きる意味や希望を見出す必要があると説き、あらためて「実存分析」を提唱しました。この内容は、『死と愛─実存分析入門』や『それでも私は人生にイエスという』に著し、戦争により、愛する人たちを失った多くの人々へ、感動をもって受け入れられました。

その後フランクルは、1955年にウィーン大学医学部神経科教授として1971年まで勤務し、オーストリア精神治療医学協会会長を務めました。極限的な体験を経て生き残った稀有の人ですが、ユーモアとウィットを愛する快活な人物で、学会出席などで、たびたび日本にも訪れていたそうです。


「9月2日にあった主なできごと」

BC31年 アクチュームの海戦…シーザーの暗殺後、ローマではオクタビアヌスとアントニウスと権力争いが始まっていました。この日アクチュームの海戦がおこり、両軍1000隻の軍船が槍、火矢、投石で交戦し、オクタビアヌスが勝利しました。アントニウスはクレオパトラと共にエジプトにもどりましたが、翌年アントニウスは剣で、クレオパトラは毒蛇に胸を咬ませて自殺しました。

1937年 クーベルタン死去…古代オリンピア遺跡の発掘に刺激されてオリンピックの復活を提唱、1896年ギリシャのアテネで近代オリンピックの開催を実現した「近代オリンピックの父」クーベルタン男爵が亡くなりました。

1945年 日本の降伏…東京湾上に浮かんだアメリカの軍艦ミズリー号の艦上で、連合国側に対する日本の降伏文書の調印式が行なわれました。日本全権団は重光葵外相他11名、連合国軍は9か国それぞれの代表とマッカーサー最高司令官が署名し、ここに満州事変から15年にわたる日本の戦争に終止符が打たれました。
投稿日:2015年09月02日(水) 05:45

 <  前の記事 「日本研究の第一人者」 ライシャワー  |  トップページ  |  次の記事 『フランス革命史』 のティエール  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/3664

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2015年09月

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)