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「井伊直弼を操った」 長野主膳

今日8月27日は、幕末期に大老・井伊直弼の懐刀として、紀州慶福(よしとみ)を14代将軍家茂に決定したこと、勅許なく条約を結んだこと、「安政の大獄」を起こしたこと、和宮降嫁の運動に着手などを主導した長野主膳(ながの しゅぜん)が、1862年に亡くなった日です。

1815年に生まれ、伊勢国滝村に住む長野次郎祐の弟とされる長野主膳(本名・義言[よしとき])ですが、25歳ころまでの経歴はほとんど不明です。

1845年、三重県飯南郡滝野村(今の飯高町)にやってきた長野主膳は、紀州新宮領主の滝野次郎左衛門の妹多紀と結婚すると、二人は京に上りました。主膳は国学を講じながら、妻多紀とともに伊勢、美濃、尾張、三河を遊歴し、1841年近江国志賀谷村(今の滋賀県米原市)に「高尚館」を開きました。翌1842年、その名声を聞いた井伊直弼は主膳を訪ね、3日3晩も語り合って主膳に傾倒し、弟子になったと伝えられています。

その後主膳は、京都に出て九条家に仕え、妻の多紀は今城家に仕えました。関白九条尚忠は英照皇太后の父で孝明天皇の外戚にあたり、九条家は井伊家とは密接な関係にありました。いっぽう今城定章の娘が孝明天皇の寵姫今城重子でした。

やがて1850年、直弼が兄の死を受けて彦根藩主となると、主膳は直弼に招へいされて藩校・弘道館国学方に二十人扶持で取り立てられ、直弼の藩政改革にも協力しました。功名心の強い主膳は、直弼が優れた才と度胸があるうえに学問もしており、長い間逆境にあって世の中の動きに通じています。直弼を大老として幕閣第一の権力者としたうえで、自ら幕府の要人になろうと考えました。

1853年、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航、世情騒然となったその年、病気がちだった第12代将軍家慶が死亡。そして13代将軍に家慶の子の家定がつきました。しかし、家定は精神薄弱な人物だったため、次期将軍には賢明な人物を立てようとする動きが少しずつ高まりました。そして1858年、主膳の努力が実って直弼が大老に就任すると、一橋慶喜を推す派と、南紀慶福を推す派の2派が争う状況になり、主膳は京都に赴き、公家衆らへの裏工作を行って南紀派が推せんする慶福を、14代将軍徳川家茂として擁立に貢献しました。

しかし、朝廷の許しを得ないまま「日米修好通商条約」の調印をしたことで尊皇派の反感をかい、さらに「安政の大獄」で、主膳が直弼に一橋派の処罰や尊王攘夷派の志士の処罰を進言したため、直弼に次いでうらまれる存在になりました。そして、1860年に、直弼が桜田門外の変で暗殺されると、主膳は家茂への孝明天皇の妹和宮の降嫁実現のために積極的に行動しました。

1862年、主膳は彦根藩の藩政にもどりますが、藩内の空気が一変していて主膳に対する批判が爆発、「奸悪の徒」として禁固され、斬首・打ち捨ての刑に処せられたのでした。


「8月27日にあった主なできごと」

紀元前551年 孔子誕生…古代中国の思想家で、「仁」を重んじる政治を唱え、たくさんの弟子を育てた孔子が生まれました。

663年 白村江の戦い…当時朝鮮半島では、新羅(しらぎ)が唐(中国)の力を借りて、百済(くだら)と高句麗(こうくり)を滅ぼして半島を統一しようとしていました。百済から援軍を求められた斉明天皇は、日本水軍を援軍に送りましたが7月に病没、かわって中大兄皇子が全軍の指揮にあたりましたが、この日、白村江(はくすきのえ)で、新羅・唐軍を迎え撃って奮闘するものの、翌日に敗れてしまいました。

1714年 貝原益軒死去…江戸時代の初期、独学で儒学、国文学、医学、博物学を学び、わが国はじめての博物誌 「大和本草」 などを著した貝原益軒が亡くなりました。
投稿日:2015年08月27日(木) 05:57

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)