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「陸軍のエリート」 永田鉄山

今日8月12日は、陸軍官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」といわれながら、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争にからんで斬殺された永田鉄山(ながた てつざん)が、1935年に亡くなった日です。

1884年、今の長野県諏訪市に病院長の子として生まれた永田鉄山は、1898年に東京陸軍地方幼年学校に入校後、1904年陸軍士官学校、1910年に陸軍大学校をトップクラスの優秀な成績で卒業しました。

1913年、軍事研究のためドイツに留学後、1916〜23年まで、デンマーク、スウェーデン、スイスに駐在しました。スイス駐在中の1921年には、ドイツ南部のバーデン・バーデンの温泉地で、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機らと会談し、陸軍の薩長閥除去などの陸軍刷新、総動員体制構築について盟約を結び、のちに省部中堅幕僚の横断的結合組織である「二葉会」や「一夕会」を結成しました。

こうして、第1次世界大戦前後のヨーロッパの軍事情勢を学び、国家総動員の必要性を認識して帰国した永田は、参謀本部に入ると、陸軍大学校教官、1926年整備局動員課長、1930年軍務局軍事課長、1932年参謀本部第二部長、歩兵第1旅団長と、エリートコースを経て、1934年軍務局長に就任しました。その間、国民・産業・財政などを一体化した総力戦体制構築の基礎をつくりあげ、軍事行政に辣腕をふるいました。

当時陸軍内部には、荒木貞夫、真崎甚三郎らの「皇道派」と、永田鉄山、東条英機らの「統制派」の対立があらわになっていました。天皇親政による軍事国家樹立をめざし国家改造をめざす「皇道派」が青年将校らに支持されたのに対し、政財界と結び、合法的に総力戦体制の構築をめざす「統制派」へは、エリート幕僚将校らに支持されていました。

やがて統制派内部に、青年将校らの目にあまる政治策動を封じるためには、少なくとも真崎甚三郎に教育総監は退いてもらおうという議論が、武藤章中佐や池田純久中佐らを中心に起こり、1935年7月15日の異動において真崎教育総監が更迭されました。この人事は、永田が首謀し、財閥・重臣との通謀者と目され、皇道派の青年将校相沢三郎中佐に、軍務局長室内において斬殺されたのでした。(相沢事件)

永田の暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争はいっそう激しさを増し、皇道派の青年将校たちは、翌1936年に「二・二六事件」を起こすに至り、その後の統制派は東条英機に継承され、太平洋戦争に至りました。「もし永田がいたなら太平洋戦争は起きなかった」ともいわれ、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」といわれる英才でした。


「8月12日にあった主なできごと」

1643年 俵屋宗達死去…江戸時代の日本画最高傑作といわれる『風神雷神図』 などを描いた江戸時代初期の画家の俵屋宗達が亡くなりました。

1893年 「君が代」「日の丸」制定…「君が代」など8曲が小学校祝日唱歌に定められ、国民の祝典や学校の式では必ず歌われるようになりました。敗戦後は、天皇を賛美する歌として強制されなくなりましたが、1999年「国旗国歌法」で正式に「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と定められました。国民の誰もがよろこんでうたえる国歌がほしいという声も根強いものがあります。

1962年 太平洋単独横断…堀江謙一が小型ヨット(全長5.8m 幅2m)で兵庫県西宮をたった一人で出発し、93日後のこの日アメリカのサンフランシスコに到着。日本人初の単独太平洋横断に成功しました。

1985年 日航ジャンボ機墜落…日航機123便が、群馬県御巣鷹山の南にある高天原(たかまがはら)山に墜落。死者520人という日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故では世界最多という大惨事となりました。
 
 
* 「夏季休暇」のため、次回は17日となります。
投稿日:2015年08月12日(水) 05:04

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)