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「太平洋戦争」 をおこした東条英機

今日7月30日は、陸軍軍人として日中戦争を推進し、陸軍大臣をへて1941年に第40代内閣総理大臣として対英米戦争を開戦させ、敗戦後にA級戦争犯罪人として処刑された東条英機(とうじょう ひでき)が、1884年に生まれた日です。

「日清戦争」当時の大本営参謀で、陸軍の戦略家として知られた東条英教の子として、今の東京千代田区に生まれた東条英機は、陸軍士官学校を経て、陸軍大学校を卒業しました。

スイス・ドイツの駐在武官、連隊長、旅団長など陸軍の要職を経て、1929年永田鉄山らと「一夕会」を結成して陸軍内の2代派閥のひとつ「統制派」のリーダーとなり、永山が陸軍のもうひとつの派閥「皇道派」の青年将校に暗殺されると革新派の中堅将校として頭角を現し、満蒙支配を主張、「満州国」創設後の1935年には関東憲兵司令官となり、1937年に関東軍参謀長となりました。盧溝橋事件が起こると国民政府との妥協に反対し、中央の統制派と結んで日中戦争の推進者になっていきました。

1938年に板垣征四郎陸相のもとで陸軍次官となり、「カミソリ東条」といわれる事務能力を発揮しました。1940年7月、第二次近衛文麿内閣の陸相として入閣すると、松岡洋右外相と組んで「日独伊三国同盟の締結」に努め、日本軍の仏印進駐を容認、対英米戦争の準備を進めました。

第三次近衛内閣にも陸相として留任した東条は、1941年10月に米政府が中国、仏印の日本軍を全面撤退させるよう要求すると、日米交渉の妥結を希望する近衛首相に対し強硬派の陸軍をバックに対立、対英米開戦を主張して内閣を総辞職に追い込みました。そして1941年10月18日、木戸幸一内大臣らの推挙で第40代内閣総理大臣に就任して内閣を組織し、現役軍人のまま首相、内相、陸相を兼任、陸軍大将となって12月8日、ハワイのアメリカ艦隊奇襲攻撃により、太平洋戦争を開始しました。

初期の戦果に国民がわきたつなか、軍部独裁体制の強化をはかり、1942年4月に「翼賛選挙」を行って、挙国一致的政治結社として「翼賛政治会」を結成し、事実上一国一党制の「戦時独裁体制」を築きあげ、国内の統制を極端に強めました。

ところが、アメリカの対日反攻作戦が本格化し、1942年6月の「ミッドウェー海戦」の敗北、1943年2月はじめの「ガダルカナル島撤退」など次第に戦局が不利になると、支配層の中にも東条批判が高まり、1944年7月に絶対国防圏の一角である「サイパン島陥落」によって日本の敗北は決定的となり、その責任を負うように東条内閣は総辞職したのでした。

敗戦後の1945年9月11日、A級戦犯容疑者として逮捕のため、アメリカ軍憲兵が東条の自宅へおもむくと、東条は拳銃自殺を図るものの失敗、連合国軍による治療により一命を取り留めました。全治ののち、連合国によって行われた東京裁判で起訴されました。「生きて虜囚の辱めを受くる勿れ」とは、東条の名で全陸軍に布告された「戦陣訓」の一節でしたが、自ら生死の決を誤ったのでした。1948年11月12日に絞首刑の判決がいい渡され、1948年12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行されました。


「7月30日にあった主なできごと」

1502年 宗祇死去…室町時代の連歌師で、和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに漂泊の人といわれる宗祇が亡くなりました。

1863年 フォード誕生…流れ作業による自動車の大量生産に成功し「世界の自動車王」といわれる実業家フォードが生まれました。

1898年 ビスマルク死去…プロイセン王の右腕として鉄血政策を推進し、1871年ドイツ統一の立役者となったビスマルクが亡くなりました。

1911年 明治天皇死去…王政復古をなしとげ、近代国家の形を整えた明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位しました。

1947年 幸田露伴死去…『五重塔』などを著し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家幸田露伴が亡くなりました。

1965年 谷崎潤一郎死去……『細雪』『春琴抄』『痴人の愛』などの小説や『源氏物語』現代語訳を著した作家の谷崎潤一郎が亡くなりました。
投稿日:2015年07月30日(木) 05:41

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)