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「執念の政治家」 金大中

今日8月18日は、朴正熙大統領と対立し、1973年に東京で拉致された「金大中事件」などの弾圧にもめげず、第15代韓国大統領となった金大中(きん だいちゅう/キム・デジュン)が 2009年に亡くなった日です。

1925年、朝鮮半島南西端の全羅道新安に生まれた金大中は、木浦(もくほ)商業学校を経て、建国大学を卒業後の1946年、建国準備委員会の地方青年活動家となり、1950年木浦日報社長となりました。1954年の総選挙で国会議員に初挑戦するも落選、民主党のスポークスマンを務め、当時の李承晩大統領の政策に反対する活動しながら1959年、1960年の選挙に落選し、1961年の補欠選挙で国会議員に初当選しました。しかし、朴正煕による軍事クーデターにより無効となりました。1963年の総選挙で当選すると、1971年第7代大統領選挙に野党新民党から出馬し、民主共和党朴正煕と争い、わずかの差で敗れました。

金大中の名が世界的に知られるようになったのは、1973年8月、東京のホテルから真昼間に拉致された後、ソウルで発見された「金大中事件」からです。これは、金が大統領選敗北後、野党の指導権争いでも敗れ、海外での活動基盤を作ろうと模索している最中、その拡がりに危機感をいだいた朴正煕政権のしわざでした。金は、韓国に連行された後も、数多くの弾圧と妨害を受けながらも、内外の反朴運動のシンボルとなりました。

しかし1977年、「大統領緊急措置違反」として告発され、翌年最高裁で禁固5年資格停止5年の刑が確定して自宅軟禁状態がつづき、1980年5月には政府転覆を図ったとして逮捕され、軍法会議にかけられ死刑判決を受けました。ところが、救援の国際世論の高まりのなかで、1981年1月死刑確定直後に無期懲役に減刑され、のちに懲役20年に減刑され、1982年12月に釈放されて渡米しました。

以後、全斗煥政権や日本政府批判の言論を活発に展開、1985年2月に帰国するとまもなく政治活動を解禁され、1987年に公民権を回復しました。1992年民主党候補として大統領選挙に出馬したものの、金泳三に敗れ、政界引退を声明してイギリスに遊学し、アジア太平洋平和財団を結成します。

1995年、ふたたび政界に復帰して新政治国民会議を結成すると、1997年に4度目の大統領選挙に出馬して勝利を収め、1998年第15代大統領に就任しました。30数年続いた、全羅道を差別しつづけた慶尚道出身者を敗った信念の勝利でした。

金は、1998年10月、拉致事件以後初めて訪日して小渕首相と会談し、共同宣言「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」に署名、韓国でそれまで禁止されていた日本文化開放を推し進めました。また、自ら大韓民国中央情報部(KCIA)に拉致され、命をねらわれた経験のある金は、1999年に国家安全企画部を廃止し、権限や機能を大幅に縮小した国家情報院を大統領直属機関として新設しました。

北朝鮮に対しては、南北経済共同体の構想や、政府レベルでの対北経済支援を盛り込んだベルリン宣言を発表するなど、対北朝鮮包容政策(太陽政策)をとりました。そして、2000年6月に北朝鮮の平壌を訪れ、朝鮮労働党総書記金正日と朝鮮半島分断後初の南北首脳会談を行い、南北統一への取り組みに合意、共同宣言に署名しました。一連の行動によりノーベル平和賞を受賞し、2003年2月大統領を任期満了で退任しました。


「8月18日にあった主なできごと」

1598年 豊臣秀吉死去…織田信長の後をついで天下統一を果たし、絢爛豪華な安土桃山時代を築いた武将豊臣秀吉が亡くなりました。

1850年 バルザック死去…『谷間の百合』や『ゴリオ爺さん』など、「人間喜劇」と名づけた作品群を残したフランスの作家バルザックが亡くなりました。

1930年 細君譲渡騒動…作家の谷崎潤一郎と、その妻千代子が離婚し、谷崎の友人の作家佐藤春夫が千代子と再婚するという細君譲渡騒動がおきました。このことを書いた挨拶状が関係者に送られたため、一大センセーションがまきおこりました。

1949年 フジヤマの飛び魚…ロサンゼルスで開かれた全米水上選手権大会に出場した古橋広之進は、1500mと400m自由形他で世界新記録を連発。アメリカの新聞は「フジヤマの飛び魚」とたたえ、敗戦でうち沈んでいた日本人を勇気づけました。

1966年 中国文化大革命…中国の首都北京で、中学生や大学生を中心とする紅衛兵100万人が文化大革命の勝利を祝う大集会を開きました。この文化大革命運動は、共産党内の反毛沢東分子や親ソ連派を「資本主義の復活をはかる実務派」として打倒、翌年4月の九全大会で、毛沢東、林彪路線を確定することになりました。
投稿日:2015年08月18日(火) 05:22

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)