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「初の印刷」 と後陽成天皇

今日8月26日は、安土桃山時代から江戸時代初期の天皇で、皇室の尊厳回復に努力し、古典文化研究の新しい潮流を生み出した後陽成天皇(ごようぜいてんのう)が、1617年に亡くなった日です。

1571年、正親町(おおぎまち)天皇の皇子の誠仁(さねひと)親王の第1子として生まれた和仁親王は、1586年に父の急死により、祖父にあたる正親町天皇に譲位されて後陽成天皇として即位しました。

当時は、織田信長の後継者として全国統一に羽柴秀吉が名乗りをあげたものの、徳川家康の抵抗にあい、家康との関係を軍事的征服でない主従関係にしたい秀吉は、1588年、平安京の跡地に築いた聚楽第に後陽成天皇を招きました(聚楽第行幸)。このとき秀吉は、京中の地子銀5530両を献上したほか、3日の滞在予定を5日に伸ばすなど大歓待をしました。こうして秀吉は、関白となって豊臣を名のり、政権の実質的成立を天下に知らせることに成功、後陽成天皇にとっては、ひっぱくしていた皇室経済を安定させるに至りました。

秀吉は1593年、「文禄の役」で朝鮮から持ち帰った李朝銅活字の器具を後陽成天皇に献上しました。天皇はこの技術を用いて『古文孝教』を印刷したと伝えられ(文禄勅版)、これが日本での銅活字を用いた最初の印刷とされています。また、学問を好み、舟橋秀賢、細川幽斎らに和学を、海北友松に画を学んでいた天皇は、1597年に李朝銅活字にならって大型木活字による『錦繍(きんしゅう)段』をはじめ、『日本書紀神代巻』『大学』『中庸』『論語』などを開版させています。これらは「慶長勅版」といわれ、朝廷や公家の間ばかりでなく、京都を中心とした古典文化研究の新しい潮流を生み出しました。

秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城にあって西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させています。1603年、徳川家康を征夷大将軍に任じ、江戸幕府が開かれました。しかし、朝廷権威の抑制をはかりたい幕府は干渉を強め、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握ることになりました。また、1609年に天皇の寵愛していた女官らが公家と密通していた事件(猪熊事件)では、幕府の京都所司代が宮中へ入り、天皇の意志がふみじられたことで、家康に退位を表明しました。

こうして1611年、第3皇子の政仁(ことひと)親王に譲位して後水尾天皇として即位させると、仙洞御所へ退いて院政を復興しましたが、後水尾天皇ともうまく行かず、父子の間は長く不和であり続けたと伝えられています。なお、詠歌に『後陽成院御製詠五十首』、日記に『慶長六年正月叙位記』があります。


「8月26日にあった主なできごと」

1743年 ラボアジエ誕生…従来の化学理論を次々と正し、実験で証明して「近代化学の父」と称されるフランスのラボアジエが生まれました。

1789年 フランス人権宣言の採択…フランス革命で、バスティーユ牢獄の襲撃やその後の動乱が落ち着いたこの日、国民議会は憲法の前文にあたる「人間と市民の権利宣言」(人間宣言)を採択しました。アメリカの独立宣言を範としたこの宣言は17条からなり、権利の平等、人間が当然の権利として持つ自由、主権在民、思想・言論の自由、所有権、安全、圧政に対する抵抗権の確認などの原則が示されています。この民主主義の考え方は、新しい市民社会の原理となりました。
投稿日:2015年08月26日(水) 05:42

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)