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「日本研究の第一人者」 ライシャワー

今日9月1日は、アメリカの東洋史研究者・ハーバード大学教授で、駐日アメリカ大使を務めたライシャワーが、1990年に亡くなった日です。

1910年、キリスト教長老派教会の宣教師の次男として、今の東京港区白金台の明治学院内に生まれたエドウィン・ライシャワーは、日本の小学校やアメリカン・スクールに学び、1926年に米国に渡り、オパーリング大学を経てハーバード大学大学院で日本を含む東アジア研究に取り組みました。1935年に日本にもどると、東大と京大に留学し、この間にアジア研究家のアドリエンと結婚、1男2女をもうけました。1938年にハーバード大学へもどり、9世紀に日本の遣唐使の一員だった仏僧円仁の『入唐求法巡礼記』の翻訳と解明により博士号を授与されました。

太平洋戦争中は、陸軍少佐として日本軍の暗号解読にたずさわり、ワシントン郊外に軍要員のために日本語学校をつくり、その卒業生たちが戦後の日本研究の中心となっています。終戦後は占領政策で国務省極東小委員会委員として参画し、天皇制の存続にも一役買いました。

1950年にハーバード大学教授となって東アジアに関する講座を開講し、アメリカ政権のアジアに関する無知さから来る政策の誤りを本や雑誌、講演などで批判してきました。また、1960年には「損なわれた対話」と題した論文を発表、「アメリカをはじめとする西側諸国は、日本の政府や財界の指導者層ではない、野党や右翼、左翼活動家、知識人とも異端視することなく対話を重ね、日本の主流から外れた人々の実態や抱える不満を把握するべきである」と主張しました。

この論文がきっかけとなって、ケネディ政権はライシャワーを駐日アメリカ大使として任命し、「日本生まれのアメリカ大使」として日本人の妻 (アドリエン夫人と死別後、明治の元勲松方正義の孫娘ハルと再婚) とともに、人気を得ることになりました。そして、アメリカ国民に日本の良さを情熱的に紹介し、1960年安保闘争後の日本を、西欧諸国並みにアメリカの同盟国として定着させることに力をそそぎました。

そんなライシャワーに逆風が訪れたのは1963年11月のケネディ暗殺後にジョンソン政権に代わったころからからでした。ライシャワーとしてはベトナム戦争反対を主張したかったものの、ベトナム戦争政策を起因とする日本人の反米感情の高まりへの対処に苦慮し、翌1964年3月、大使館門前で暴漢にナイフで刺され重傷を負ってしまいました。退院後も駐日大使として活躍するものの、ベトナム戦争が本格化し日本人の対米感情の悪化に、本国の政策に違和感を感じて1966年に退任しました。

退任後は、ハーバード大学に復帰しますが、南ベトナムへの干渉・中国の承認・沖縄返還・対韓国政策の再考などに発言し、中曽根首相や韓国野党指導者の金大中に対してもさまざまな助言を行ったほか、ハーバード大学日本研究所所長、同大学東アジア研究評議会理事、OECD理事、アジア基金理事として、日本と東アジア諸国とアメリカの関係を取り持ってきました。

1990年、大使時代の刺殺事件の際の輸血による肝炎の悪化によって亡くなりましたが、みずから生命維持装置を外した尊厳死でした。


「9月1日にあった主なできごと」

1923年 関東大震災…午前11時58分、関東地方一帯に震度7.9(激震)という大地震・関東大震災がおこりました。東京では130余か所で火災がおきて半分以上を焼き尽くし、関東全域で死者10万人以上、災害にあった人は400万人にものぼりました。不安が高まる中に「朝鮮人が暴動をおこした」「井戸に毒を流した」などというデマが乱れとび、罪のない朝鮮人や中国人数千人が殺されました。

1939年 第二次世界大戦…ヒトラーの率いるドイツ軍は、突然隣国のポーランドに侵攻しました。この行動に対し、イギリスとフランスは、兵を引き上げるように要求しましたがヒトラーはこれを受け入れず、9月3日に英仏はドイツに宣戦布告、第二次世界大戦が勃発しました。戦争はヨーロッパ全体に広がり、やがて世界のほとんどを巻きこむ大戦争になっていきました。

1960年 防災の日…前年に襲来して、5000人を越える死者・行方不明者、39000人の負傷者という大災害をおこした伊勢湾台風と、関東大震災のおきた日にちなみ、防災意識を高めようと、政府はこの日を「防災の日」と定めました。

1983年 大韓航空機撃墜される…ニューヨーク発、バンクーバー経由ソウル行の大韓航空機が、誘導装置の設定ミスによるソ連領空侵犯のために、ソ連戦闘機に撃墜され、乗客乗員269人が死亡しました。
投稿日:2015年09月01日(火) 05:28

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)