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「嘉吉の乱」 と赤松満祐

今日9月10日は、室町時代中期の武将で、6代将軍足利義教を暗殺した守護大名の赤松満祐(あかまつ みつすけ)が、1441年に亡くなった日です。

1381年、播磨・備前・美作の守護大名で、室町幕府の軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を一色・京極・山名氏とともに交代で司る四職の一つだった赤松義則の子として生まれた赤松満祐は、早くから父に代わって政治の表舞台にありました。第4代将軍・足利義持の代になって、1411〜13年に侍所頭人を務めました。

1427年に亡くなった父の跡目を継ぎましたが、同族の赤松持貞が将軍義持の寵愛を受け、義持は播磨を将軍の直轄領としてその代官職を持貞に預けようとしました。これに怒った満祐は、京都の自邸を焼き払って領国の播磨へ下り、一族を集めて合戦の準備を始めました。この行動に対し、義持は残る備前・美作両国も奪った上で赤松氏追討令を出しましたが、討伐を命じられた一色義貫らが出兵を拒むなど混乱が続きました。そんなとき、持貞と義持の側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追いこまれ、満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免されました。

1428年に義持が死去し、その弟の足利義教が第6代将軍となると、満祐は反乱を起こした北畠満雅討伐軍に加わり、満雅の子の教具と幕府を和睦させて北畠家との取次を務めました。さらに同年から1432年まで侍所頭人に再任され、翌年に播磨の国一揆が起こると播磨に下向して反乱を鎮圧しました。

このように義教と満祐は当初は良好な関係にあり、1438年には3度目の侍所頭人を任されるなど、幕府内の長老格として権勢を振るいました。やがて義教は、有力守護大名に厳しく対処するようになり、家督を取り上げたり、所領を削りとるなど勝手な振る舞いをするようになり、赤松氏に対しても1440年、満祐の弟義雅の所領を没収して、一族の貞村に分与するなど赤松氏の惣領家を冷遇しました。こんな情勢のなかで満祐は1441年6月24日、将軍義教を京都二条邸の猿楽の宴に招いて、宴中に殺害(嘉吉[かきつ]の乱)しました。

この事件は、足利政権の衰退を示すもので、しばらくは満祐を追討するものはありませんでした。やがて8月に入り、山名家の山名宗全を主力とする追討軍が行動を開始し、9月に入って播磨国の坂本城を、さらに越部庄の木山城を攻略し、満祐、義雅らは自害、伊勢国に逃れた満祐の嫡子教康も殺害され、赤松氏惣領家は没落したのでした。


「9月10日にあった主なできごと」

1561年 川中島の戦い…戦国時代の武将たちは、京都にせめのぼり、天下に号令することをめざして競いあっていました。甲斐(山梨)の武田信玄と、越後(新潟)の上杉謙信の両武将も、千曲川と犀川の合流地点にある川中島を中心に、いがみあっていました。川中島は穀倉地帯にあり、軍事的にも重要な地点だったため、1553年以来5度にわたって両軍の争奪戦の場となりました。4回目のこの日の戦いがもっとも激しいもので、信玄と謙信両雄の一騎打ちなど、さまざまなエピソードが残されています。結局双方とも、決定的な勝利をおさめることなく終わり、戦国時代は織田信長らの次の展開をむかえることになります。

1951年 「羅生門」グランプリ…黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演による映画 「羅生門」 が、第12回ベネチア(ベニス)国際映画祭で、金獅子賞グランプリを受賞しました。

1960年 カラーテレビ本放送開始・・・NHK東京および大阪中央放送局、日本テレビ、東京放送、朝日放送、読売テレビが、この日、日本ではじめてカラーによる本放送(一部の番組のみ)を開始しましたが、当時のカラーテレビ受像機は全国でも1000台たらず、多くの人たちはデパートや駅前広場などで見る程度でした。
投稿日:2015年09月10日(木) 05:21

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)