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「恋と革命に生きた」 伊藤野枝

今日9月16日は、婦人解放運動家・作家・無政府主義者の伊藤野枝(いとう のえ)が、1923年に、大杉栄とともに憲兵に虐殺された日です。

1895年、今の福岡市西区に生まれた伊藤野枝は、瓦職人の父が放蕩者でろくに仕事をしないため、母が塩田の日雇いや農家の手伝いなどをして暮しを立てていました。小学2年生のときには、口減らしのために一時叔母の家に預けられるほどでした。1909年高等小学校を卒業すると、家計を助けるため地元の郵便局に勤務しながら雑誌に詩や短歌を投稿しました。やがて東京への憧れがつのり、叔父の援助で上京すると、猛勉強のすえ上野高等女学校(今の上野学園)に4年編入試験に合格、在学中に英語教師の辻潤と知りあいました。

1912年に同校を主席で卒業して帰郷すると、親の決めた相手と婚約が決まっていて、しぶしぶ結婚をするものの、9日目に家出して再上京、恩師の辻潤と結婚生活をはじめました。こうした結婚問題を通じ、家庭制度の矛盾を痛感したことから、平塚らいてふを中心に女性の解放をめざす団体「青鞜社」に入社、編集にたずさわりながら、自伝的小説や評論を発表し、「新しい女」として注目されました。

1915年からは、平塚にかわって『青鞜』の編集責任者なると、エリート女性だけでなく一般女性にも誌面を解放し、『青鞜』を文芸雑誌から女性評論・女性論争誌に変えていきました。その間、アメリカの著名な無政府主義者のゴールドマン・エマに傾倒して『婦人解放の悲劇』を翻訳したり、足尾鉱毒事件に関心を深め、私生活では長男と次男を出産しています。

1916年になると4月に辻潤と離別し、『青鞜』を放棄するとともに、翌月から無政府主義運動の中心であった大杉栄と文通を開始、秋には同棲しました。大杉の妻、東京日日新聞記者で愛人の神近市子と四角関係を演じると、翌1917年に大杉は妻と離婚し、神近は大杉に重傷を負わせたことで殺人未遂罪で入獄します。「多角恋愛」で勝利した野枝は、9月に長女を出産、周囲からの「悪魔」呼ばわりを逆手に取って魔子と命名しました(のち眞子に改名)。貧しさに苦しみ、官憲に追われる生活ながら大杉との生活は充実し、1918年に『文明批評』、翌年に『労働運動』を二人で創刊。『クロポトキン研究』『貧乏の名誉』『二人の革命家』などの著書・共著も多く残し、その後も4人の子を出産しました。

1921年には、無政府主義の機関誌「赤瀾会」結成に参加するなどの活動を続けました。そして1923年の関東大震災後まもない16日のこの日、大杉栄、大杉の甥・橘宗一とともに憲兵の甘粕正彦に連れ去られ、その日のうちに憲兵隊構内で虐殺(甘粕事件)されました。わずか28歳の若さでした。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、伊藤野枝の『乞食の名誉』ほか評論・翻訳書など29編を読むことができます。


「9月16日にあった主なできごと」

1620年 メイフラワー号出帆…アメリカ建国のきっかけをつくった102人のピュリタン(清教徒)が、イギリスのプリマス港を出港しました。

1793年 渡辺崋山誕生…江戸時代後期の画家・洋学者で、著書『慎機論』の中で幕政を批判したとして「蛮社の獄」に倒れた渡辺崋山が生れました。

1865年 小村寿太郎誕生…日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争終結後のポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官小村寿太郎が生まれました。

1877年 大森貝塚発掘開始…アメリカの動物学者モースは、縄文時代の貝塚「大森貝塚」を発掘を開始しました。この発掘がきっかけとなって、日本に近代科学としての考古学がスタートしました。
投稿日:2015年09月16日(水) 05:41

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)