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「ヒトラーを支えた」 ゲーリング

今日10月15日は、ナチス・ドイツの指導者で、国家元帥をはじめ16の官職を持ったゲーリングが、1946年に自殺した日です。

1893年、ドイツのバイエルン地方ローゼンハイムに外交官の子として生まれたヘルマン・ゲーリングは、幼年士官学校を経て、第一次世界大戦中の1914年に陸軍少尉に任官し、ミュールハウゼン駐留の歩兵連隊に配属されました。まもなく陸軍航空隊へ移って偵察機の観測員、1915年9月から戦闘機パイロットとなりました。1917年代からエースパイロットとして知られるようになり、「20機撃墜を誇る空の英雄」と讃えられました。

敗戦後は、曲芸飛行士としてデンマークやスウェーデンで活動、1922年にミュンヘン大学に学ぶうち、ナチス党首のヒトラーの演説に魅了されて同党へ入党します。大戦の経歴から重用され、入党後ただちに突撃隊最高指導者に任じられました。しかし、1923年のミュンヘン一揆に突撃隊を率いて参加するものの、一揆は失敗、腰に銃弾を受けてオーストリアやスウェーデンに4年間亡命しました。

1927年、ドイツ国会で政治犯の恩赦が可決されて帰国をはたすと、翌1928年の国会総選挙でナチス党候補者名簿の最上位となって国会議員、ナチス党議員団の長となりました。交際範囲の広いゲーリングは、ヒトラーを財界、軍部、大統領に結びつけるなど、ナチス党と上流階級の橋渡し役を務めたり、大企業から企業献金を取りつけたことで、積極的な選挙活動を打てるようになって議席を急速に伸ばしました。そして、1932年7月の総選挙で第一党となり、8月にはゲーリングが国会議長に選出され、ヒトラー政権成立を裏面から支えました。

1933年にヒトラー内閣に入ると、プロイセン内相を兼ねてゲシュタポ(国家秘密警察)を組織し、自ら仕組んだ「国会議事堂放火事件」を理由に、勢力の強かった共産党を禁止しました。また、1935年3月にヒトラーがベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して「再軍備宣言」をすると、ただちに空軍司令長官となりました。さらに1936年「四ヵ年計画」長官として軍備拡大を推進し、アウタルキー(自給自足経済)の実現に努め、1939年9月にはヒトラーにより後継者に指名されました。

第二次世界大戦でも空軍を指揮しましたが、1940年の空軍戦でイギリスを屈服させることに失敗したことを皮切りに、1943年のスターリングラードで包囲されたドイツ軍への物資空輸作戦の失敗によって、ゲーリングの名声も権力の失墜も決定的となりました。やがて1944年までにはナチス首脳部の実質的な決定機能から退き、絵画コレクションに傾倒したり、薬物への依存が高まって常軌を失い、1945年4月末にヒトラーにかわって総統になろうとしてその怒りを買い、全官職を剥奪されたことで、英米軍へ投降しました。

敗戦後にゲーリングは、アメリカ軍のもとに国家元帥として出頭し、正当な取り扱いを要求するものの、「ゲシュタポと強制収容所設立の責任者」の罪でニュルンベルク軍事裁判にかけられて絞首刑をいいわたされ、刑執行の前日、隠し持っていた青酸カプセルを飲んで自殺しました。


「10月15日にあった主なできごと」

1564年 ベサリウス死去…16世紀神聖ローマ帝国の支配下にあったベルギーの解剖学者で、現代人体解剖の創始者といわれるベサリウスが亡くなりました。

1582年 グレゴリオ暦開始…4年ごとに閏年をおく「ユリウス暦」は1500年以上も使われてきましたが、すでに10日間もの遅れが出ていました。そのため教皇グレゴリウス13世は、以後100で割れても400で割れない年については閏年としないこと、この年の10月4日の翌日は10月15日とすることを決めました。これが今世界のほとんどの国で使用されている「グレゴリオ暦」で、これに変えなかったイギリスは1752年まで、ロシアは1918年までユリウス暦を使用したため、日付にずれが生じています。

1929年 官吏給与1割カット発表…政府はこの日、官吏の給与を1割カットすると突然発表しました。大蔵大臣井上準之助は、長引く不況を乗り越えるには、国民が節約につとめることによって物価を下げ、金輸出解禁にふみこむことが必要と主張。それには政府が模範を示さなくてはと給与カットを発表しましたが、反対にあって1週間後に撤回。しかし、昭和不況が深刻化した2年後の6月に実施されることになりました。
投稿日:2015年10月15日(木) 05:25

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)