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「人形浄瑠璃の全盛期」 と竹田出雲

今日11月4日は、江戸時代中期の浄瑠璃作者で、『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など今も人気の作品を多く残した竹田出雲(たけだ いずも)2代目が、1756年に亡くなった日です。

1691年、大坂道頓堀にあった人形浄瑠璃芝居「竹本座」を経営する初代竹田出雲(元祖出雲)の次男として生まれた2代目(本名・清定)は、幼いころから父の指導を受けて育ち、やがて小出雲の名で、父や松田文耕堂、長谷川千四と組んだ合作グループの一員として、多くの作品を書きました。

1747年に父の死去により、二代目竹田出雲を襲名して竹本座の座元になると、名作として今もしばしば上演される次のような作品を、並木千柳、三好松洛らと合作したことで、人形浄瑠璃の全盛期を打ち立てました。

『義経千本桜』─1747年初演の全5段からなる時代物で、源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、実は生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描いた作品。

『仮名手本忠臣蔵』─1748年初演の全11段からなる時代物で、赤穂義士を題材としているものの、浅野内匠頭を「塩谷判官」、吉良上野介を「高師直」、大石内蔵助を「大星由良助」の役名に脚色。

『菅原伝授手習鑑』─1746年初演の全5段からなる時代物で、菅原道真の失脚事件を中心に、松王丸・梅王丸・桜丸兄弟を配して道真の周囲の人々の生きざまを描いたもので、4段目を「寺子屋」の名で独立して上演されることが多い作品。

そのほか、『夏祭浪花鑑』『双蝶々曲輪日記』『傾城枕軍談』など、小出雲時代を含めて約40編(単独作は10編程度)を残しました。人形浄瑠璃として初演後は、歌舞伎や文楽に移され、今も多くの作品が上演されているのは驚異的で、のちに2代目は「親方出雲」といわれるようになりました。

ところが『〜忠臣蔵』上演の際、楽屋内で浄瑠璃を語る太夫や人形遣いたちの騒動がおこり、その結果、多くが竹本座のライバルだった豊竹座に移るという事件が起こりました。これがきっかけとなって、歌舞伎の隆盛に押され、急速に衰退に追いこまれる気運の中で亡くなりました。

2世の没後は、2世の子文吉が3世を継ぐものの、名代の権利を人に譲ってしまい、竹田出雲はとだえました。3世も作者を兼ね、近松半二らとの合作に名を連ねた作品を残しています。


「11月4日にあった主なできごと」

1847年 メンデルスゾーン死去…世界3大「バイオリン協奏曲(コンチェルト)」の一つと賞賛される『バイオリン協奏曲』をはじめ、『真夏の夜の夢』『フィンガルの洞窟』などを作曲したメンデルスゾーンが亡くなりました。

1921年 原敬首相刺殺される…平民宰相といわれた原敬首相が、東京駅で19歳の鉄道員に刺殺されて亡くなりました。当時、原内閣の社会主義運動への弾圧、普通選挙法への反対、シベリア出兵の強行など、資本家の利益につながる政治腐敗に対し、民衆の非難が高まっていました。

1946年 ユネスコ成立…国際連合には、総会、安全保障理事会などさまざまな仕事がありますが、それ以外に経済、社会、文化などを扱う専門機関があります。ユネスコもその一つで、正式には「国際連合教育科学文化連合」といい、それぞれの英文の頭文字だけをとってUNESCO (ユネスコ)と呼んでいます。この日「ユネスコ憲章」が発効し、正式に成立しました。
投稿日:2015年11月04日(水) 05:01

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)