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「世界的報道カメラマン」 沢田教一

今日10月28日は、ベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』など、世界の人々を感銘させる数々の写真を撮り続けた報道カメラマンの沢田教一(さわだ きょういち)が、1970年に亡くなった日です。

1936年、 青森市に郵便局員の子に生まれた沢田教一は、13歳の時、新聞配達のアルバイトをしてカメラを買ったのが写真との出会いでした。地元の中学の英語教師から写真技術の手ほどきを受け、1954年に県立青森高校を卒業後、青森や三沢で写真店に務めながら写真技術を習得するとともに、店主で写真家の小島一郎の影響を受けました。この頃、報道カメラマンとして世界的になったキャパの『イメージズ・オブ・ウォー』やブレッソンの『決定的瞬間』に驚き、あこがれるようになります。

1961年、プロをめざして上京しUPI通信に職を得ると、1964年末皇太子夫妻の訪タイを取材しての帰り道、香港で岡村昭彦と会ったことがきっかけになって、ベトナム戦争取材の決心を固めました。1965年2月、1か月の休暇を取って自費でベトナムに渡り取材を始めました。この時期はベトナム戦争が全面戦争に発展した時期だったこともあり、UPIサイゴン支局は沢田の滞在延期を東京支局に要請すると、1か月滞在が延長されたばかりか、この取材中に撮った写真が評価され、サイゴン支局から異動の要請が入りました。

同1965年7月、 UPIサイゴン支局スタッフカメラマンとして正式に赴任すると、9月に、銃弾を避けながら川を渡る2組の母子の写真『安全への逃避』を撮影。この写真が、1965年ハーグ世界報道写真展グランプリとニュース部門第1位、アメリカ海外記者クラブ賞第1位を獲得しました。さらに、1966年1月、2人の米兵が塹壕から引きずり出したベトコン女性兵士を連行する写真『敵を連れて』(1966年ハーグ世界報道写真展2位)、2月にはアメリカ軍の装甲兵員輸送車がベトコンの死体を引きずっている写真『泥まみれの死』(1966年ハーグ世界報道写真展1位)などが脚光を浴びました。また、5月には、 前年撮影した『安全への逃避』を含む全28点収録の写真集が、ピューリッツァー賞報道写真部門を受賞しました。

沢田の撮影姿勢は、敵も味方もない、罪もない人たちの視点から見た写真で、弾丸の飛び交う生と死のぎりぎりの最前線にとどまりながら、戦争の現実をフィルムに刻むことでした。力のない老人や女性や子どもたちの姿が多いことでもわかります。『安全への逃避』の賞金の一部を、被写体となった2人の女性に渡そうと、沢田は1年間も探し続け、ついに探し当てて無事お金を渡したというエピソードも心を打つものがあります。

1968年9月、3年半にわたる報道カメラマンとしての仕事にピリオドを打ち、 UPIの香港支局に写真部長として静かな生活を送っていました。ところが、1970年1月サイゴン支局にもどると、激動するインドシナを再び撮影し始め、3月にカンボジアにクーデターがおこると、カンボジア領内でベトナム人虐殺が相次ぎ、10月に米軍のカンボジア侵攻を取材中のこの日、プノンペンの南34キロの国道で、死体となって発見されました。胸に4発、首に2発の銃弾を受け、愛機のライカは持ち去られていました。わずか34年の生涯でした。

なお没後の1971年には、ロバート・キャパ賞を受賞、1996年には、ドキュメンタリー映画『SAWADA 青森からベトナムへ ピュリッツァー賞カメラマン沢田教一の生と死』(監督・五十嵐匠)が製作されました。


「10月28日にあった主なできごと」

1583年 大坂城完成…豊臣秀吉が大坂城を築きましたが、1598年の秀吉の死後は、遺児・豊臣秀頼が城に留まりました。しかし、1615年の大坂夏の陣で落城、豊臣氏は滅亡しました。

1749年 ゲーテ誕生…『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いた文豪ゲーテが生れました。

1953年 民放テレビ開始…日本初の民放テレビとして「日本テレビ」が放送を開始しました。当時は受像機の台数が少なく、人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には、街頭テレビに観衆が殺到し、黒山のような人だかりになりました。
投稿日:2015年10月28日(水) 05:32

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)