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「松下村塾」と吉田松陰

今日10月27日は、幕末から明治期に、志士・政治家として活躍する高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨、山県有朋、伊藤博文らを育てた思想家の吉田松陰(よしだ しょういん)が、1859年に亡くなった日です。

1830年、長州藩(山口県)藩士杉百合之助の次男に生まれた松陰(通称・寅次郎)は、4歳のとき、山鹿流の兵学をつたえる吉田賢良の養子になりました。まもなく賢良が急死したため、松陰はおじの玉木文之進から学問を厳しくたたきこまれました。猛烈なつめこみ教育でしたが、松陰はこれにこたえ、9歳のころには神童ぶりがうわさされるようになりました。10歳のとき、うわさを聞いた藩主毛利敬親の前で山鹿素行の兵学書『武教全書』を講義して、その秀才ぶりを示したと伝えられています。

松陰は、18歳で藩校明倫館の師範になると、1850年、世界の大勢に目をそそぐ必要を感じて長崎に遊学し、ひきつづき翌年には、藩主にしたがって江戸に出ると、西洋兵学の必要を悟って佐久間象山の門に入りました。「山鹿流の兵学はもう古い。西洋学を学ばなくては遅れるよ」と象山に説かれて松陰は苦しみました。そして、藩のゆるしを受けずに、東北をめぐる旅で苦しみをまぎらそうとしました。しかし、旅から江戸に戻ると、藩から帰国を命じられました。脱藩の罪に問われ、禄をうばわれて師範役もとりあげられたのです。なんとか諸国留学の許しを受けた松陰は、1853年ふたたび江戸に出て、再び象山から洋学を学びました。

世の中はちょうど、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、大混乱しているときでした。アメリカの軍艦を見た松陰は、西洋人の文明があまりにも進んでいるのに驚嘆しました。そしてついに、象山のすすめもあって、海外渡航を決意します。たまたま長崎に入港したロシア軍艦にのりこもうとしましたが間にあわず、1854年、ふたたび来航したペリーの軍艦に命がけで近づきました。しかし、必死の頼みも受け入れてもらえず追い返され、松陰は長州藩の野山獄につながれてしまいました。牢のなかでは、勉強する機会を天が与えてくれたと読書にふけり、世をすねた囚人たちに学問を教えました。そんな態度が立派だったため、藩は松陰を牢から出しました。

実家の杉家に預けられると、松陰はここに「松下村塾」を開き、門人を育成しました。その教育は徹底した実学で、名利のための学問を否定し、この世の中で何をなすべきかを門人一人ひとりに問いかけました。塾がひらかれたのは、わずか2年半でしたが、この塾から高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、井上馨、山県有朋、伊藤博文、前原一誠、品川弥二郎ら、たくさんの志士や政治家が育ちました。

1858年松陰は、幕府が「日米修好条約」を天皇の許可なく調印したことを知ると幕府批判を強め、朝廷による改革を構想し、尊王志士を弾圧にのりだした老中首座の間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画や志士を収容する京都伏見牢襲撃計画の決行を門下生に命じました。翌1859年6月、大老井伊直弼によって幕府批判者に対する弾圧「安政の大獄」で逮捕された梅田雲浜との関係を調べられた松陰は、江戸に身柄を送られました。伝馬町の牢に入れられ、その取り調べの中で、間部暗殺計画についてもらしたため、この日処刑されたのでした。


「10月27日にあった主なできごと」

1728年 クック誕生…キャプテン・クックのよび名で知られ、世界の海を縦横に走り回って、オーストラリアやニュージーランドの探検・調査などさまざまな業績をのこした18世紀の海洋探検家のクックが生まれました。

1931年 2つの世界新記録…東京神宮競技場で開かれた陸上競技大会で、走り幅跳びの南部忠平が7m98cm、三段跳びの織田幹雄が15m58cmで日本人初の世界記録を樹立しました。

1977年 前田青邨死去…今村紫紅、安田靫彦、小林古径らと腕を競いあいながら大成した日本画家の前田青邨が亡くなりました。
投稿日:2015年10月27日(火) 05:14

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)