今日11月13日は、箱根駅伝の開催に尽力し、高地トレーニングを導入するなど日本マラソン界の発展に大きく貢献した金栗四三(かなぐり しぞう)が、1983年に亡くなった日です。
1891年、熊本県玉名市に生まれた金栗四三は、旧玉名中学を卒業後、1910年東京高等師範学校(今の筑波大)に入学しました。1911年、翌年に開催される第5回ストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に足袋で出場し、当時の世界最高記録を27分も縮める(2時間32分45秒)を出して、短距離の三島弥彦と共に、日本人初のオリンピック選手として出場が決まりました。
翌1912年のストックホルムオリンピックでは、金栗が国内予選で大記録を出したことから各国にマークされ、期待の重圧と睡眠不足、レース途中で40度を越える猛烈な暑さに日射病で意識を失って30キロ付近で倒れてしまいました。近くの農家で介抱され、その農家で目を覚ましたのは、翌朝のことでした。当時、日本からスウェーデンへは20日もかけて船と列車でかかり、さらにマラソンの当日は、金栗を迎えに来るはずの車が来なかったため、競技場まで走らなければならないという過酷なものでした。
この敗戦は金栗にとって大きなショックで、以後の練習は、徹夜、絶食でマラソンを走るというような奇妙なものでしたが、その甲斐あって、1914年の国内レースで2時間19分30秒という当時の世界最高記録をぬりかえるものでした。残念なことに、第1次世界大戦が勃発したため、1916年の第6回大会は中止となってしまいます。第7回アントワープ、第8回パリの両大会にも出場したものの、年齢的に峠を越えていて、それぞれ17位、棄権という結果に終わってしまいました。
それまでの十数年間に、金栗がマラソン練習に走った距離は驚異的で、30万キロともいわれ、金栗が走らなかった国道はひとつもないといわれるものでした。オリンピックでは実績を残せませんでしたが、引退後の指導者としての功績は実に多くのものがあり、「日本マラソンの父」といわれるのも、納得のいくものです。
その一つは、今も正月の風物詩となっている「箱根駅伝」を1920年に創始したことでしょう。1917年に日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われました。これは京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、東西に分かれた2チームが昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーでした。これが大成功を収めたのに意を強くした金栗が、大学などに箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師の4校が応じたことからスタートしたものでした。
さらに金栗は、全国の優秀選手を1か所に集めて練習をさせるいわゆる合宿練習を提唱しました。富士山山頂まで駆け上がる高地練習、等間隔で並ぶ電信柱を目印に全力疾走とジョギングを交互に行うインターバルトレーニングを行うなど、日本に優秀なマラソンランナーを輩出させる指導力を発揮しました。また、箱根駅伝を読売新聞社、朝日新聞社に「金栗賞朝日マラソン」(のちの福岡国際マラソン)をそれぞれスポンサーにするなど、組織者としての力も発揮しました。
なお、こんなエピソードが残されています。金栗は、1967年3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されました。ストックホルムオリンピックでは「金栗は、競技中に失踪し行方不明」として扱われていました。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切りました。するとこの時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされたのです。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしたと伝えられています。
「11月13日にあった主なできごと」
1523年 インカ帝国皇帝捕えられる…15世紀から16世紀にかけてペルー南部に栄えたインカ帝国は、クスコを中心に石造建築や織物、金銀細工など優れた文明を築きましたが、この日スペインのピサロは、帝国のアタワルバ皇帝をだまして捕えました。翌年インカ帝国は滅亡、スペインは南アメリカ大陸の大半を長い年月支配することになりました。
1614年 高山右近国外追放…織田信長、豊臣秀吉、徳川家康につかえた高山右近は、築城術もたけ茶道にも長じたキリシタン大名でしたが、禁止されたキリスト教を捨てなかったためにこの日国外追放、40日後にマニラで亡くなりました。