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「名誉回復した」 劉少奇

今日11月12日は、毛沢東に次いで、第2代中華人民共和国主席を務めたものの、文化大革命の中で失脚した劉少奇(りゅう しょうき)が、1969年に亡くなった日です。

1898年、湖南省寧郷に生まれた劉少奇は、省都である長沙の中学をへて、1920年に省の中国社会主義青年団に入団、翌1921年にソ連に入国し、モスクワの東方勤労者共産大学で学びながら、中国共産党に入党しました。1922年に帰国後は、江西省の炭鉱ストライキや上海5.30事件で40万労働者のストライキを指導するなど数々の労働運動活動が評価され、1927年に党の中央委員に選出されました。

国共分裂後は、国民党支配地域(白区)を中心に地下工作活動に従事し、1936年から党の北方局書記となり、華北地区での抗日運動を指導します。さらに新四軍の政治委員となり、軍の再建と華中地区の拡大に務めながら、党員の規律や指導についての書『共産党員の修養を論ず』を著し、理論的指導書として広く党内で読まれました。

1943年、延安にもどって党中央書記に就任すると、整風運動に従事し、1945年4月から6月にかけて開催された第7回全国代表大会(党大会)では毛沢東に次いで中央委員に当選、「党規約の改正についての報告」を発表してこの中に「毛沢東思想」という言葉を初めて公式の文書に使用しました。

中国国民党との国共内戦を経て、1949年に「中華人民共和国」が建国されると、中央人民政府副主席や人民革命軍事委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会委員長を歴任しました。さらに、1956年9月、第8回党大会で政治報告を担当し、続く第8期1中全会で中央政治局常務委員に選出され、中央委員会副主席の筆頭に位置づけられました。1958年頃から毛沢東主導で実施された大躍進政策が、この国を襲った農業危機、食糧危機のなかで、2000万人もの餓死者が出るなど失敗に終わると、劉は毛沢東に代わって国家主席に就任し、毛沢東批判派の頂点に立ちました。

こうして劉は、ケ小平党総書記とともに民主主義を発揚しようと呼びかけ、調整政策を実施して経済の行きづまりを切りぬけました。党内への影響力を失っていった毛沢東が、文化大革命を決意したのはこのころからでした。そして1966年に、大革命が始まった8月の第8期11中全会で、「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」とされ、党内序列第8位に格下げされたばかりか、「中国のフルシチョフ」と夫人とともに紅衛兵につるし上げられ、1968年10月の第8期12中全会では永久除名処分をうけ、1年後に失意のうちに亡くなりました。

この文化大革命中に、「劉ケ」路線と呼ばれて失脚したケ小平でしたが、毛沢東が死去し、四人組が打倒されて政権の実力者となって復帰すると、劉の名誉回復の機運が高まり、1980年2月、11期第5回中央委総会で正式に名誉回復され、「劉少奇追放は、党史上最大の冤罪事件」とコミュニケが発表されたのでした。


「11月12日にあった主なできごと」

1871年 日本初の女子留学生… 岩倉具視を団長に、伊藤博文、木戸孝允ら欧米巡遊視察団48名がこの日横浜港を出港。そこに59名の留学生も同乗、後に「女子英学塾」(現・津田塾大)を設立する6歳の津田梅子ら5名の女子留学生の姿がありました。
 
1898年 中浜万次郎死去…漂流した漁船にのっていてアメリカ船にすくわれ、アメリカで教育を受け、アメリカ文化の紹介者として活躍した中浜万次郎(ジョン万次郎)が亡くなりました。
 
1948年 極東軍事裁判判決…太平洋戦争敗戦後、GHQ(連合軍総司令部)による占領政治が開始されると、満州事変以来の政府と軍部指導者の戦争責任をさばく極東軍事裁判(東京裁判)が1946年から31か月にわたっておこなわれました。この日に最終判決が下され、東条英機ら7名に死刑、被告25名全員が有罪とされました。
投稿日:2015年11月12日(木) 05:56

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)