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「Mr.パレスティナ革命」 アラファト

今日11月11日は、パレスチナゲリラの指導者で、PLO(パレスチナ解放機構)執行委員会議長、パレスチナ自治政府の初代大統領になったアラファトが、2004年に亡くなった日です。

1929年、アラブ系スン二派ムスリムの名門フセイニー家に属する裕福な織物業者の5番目の子として生まれたヤ―セル・アラファトは、カイロとエルサレムで少年時代をすごした後、カイロ大学で工学を学びました。学生時代にパレスチナ学生連合の議長として、パレスチナ解放運動にかかわりました。

1956年にスエズ危機が起こるとエジプト軍に入り、「第二次中東戦争」に工兵大尉として従軍。戦後はクウェートで技師として働きながらパレスチナ解放運動を続け、後のPLO主流派となるファタハを結成しました。アラファトは、ファタハをパレスチナ解放運動の主流勢力に成長させ、1966年にはヨルダンの拠点からイスラエルを攻撃する「第三次中東戦争」の引き金となる事件を起こしましたが、イスラエルの猛反撃に、エジプトを中心とするアラブ連合は、敗北してしまいました。

アラファトがいちやく有名になったのは、1968年の「カメラの戦い」からでした。ファタハによるイスラエル占領地へのゲリラ攻撃に対し、イスラエルはヨルダン川東岸の町カメラにいるファタハを壊滅しようと猛攻を加えたのに、アラファト指揮するファタハはこれに耐えぬき、やがてヨルダン軍も支援したことで、ついに最新鋭装備を誇るイスラエル軍を撃退しました。この勝利に、エジプトのナセル大統領は、パレスチナ問題のすべてをアラファトに任せる決意をし、1969年2月パレスティナ民族評議会は、PLO執行委員会議長にアラファトを選出しました。

アラファト指導下のPLOは、パレスチナ難民が多く居住するヨルダンに拠点を作って、イスラエルに対する越境攻撃を行い、イスラエル軍の反撃を撃退。アラファトはいっきにアラブ・パレスチナの英雄「ミスター・パレスティナ革命」といわれるようになりました。ところが、勢力を拡大したPLOはヨルダンにおける「国家内国家」となってしまい、ヨルダン政府と利害を衝突させるようになってしまいました。

翌1970年、PLOによるテロがヨルダンを巻きこむようになると、パレスチナ難民の不安定化によるヨルダン情勢の悪化を恐れるフセイン国王は、9月に戒厳令を敷いて国王親衛隊のアラブ遊牧民の「ベドウィン部隊」を投入してPLOを攻撃しました(ブラック・セプテンバー)。

ヨルダンから追放されたアラファトは、今度はレバノンに移って1970年代を通じてイスラエルに対する武装闘争を続けました。さまざまな経過後の1988年7月、ヨルダンのフセイン国王は、パレスチナの領有権を破棄し、1988年11月にアラファトはパレスチナ国家を建国するとしてパレスチナの独立宣言を発表、初代大統領に就任してイスラム世界や非同盟諸国と共産圏を中心に国家承認を得ました。しかし、1990年の湾岸戦争では親交のあったイラクのフセインを支持したため、湾岸産油国からの支援を打ち切られて苦境に陥りました。

その後、イスラエルとの対話路線をうたう穏健派の指導者として復活を図り、1993年和平(オスロ合意)を成立させてイスラエルのラビン首相と会見、翌1994年、和平協定に基づいてパレスチナ自治政府が設立されると、1996年1月の選挙でその長官(初代大統領)に選出されました。1994年には、この政治決断に対してノーベル平和賞が贈られています。

しかし、その後イスラエルとの和平プロセスはラビンの暗殺がきっかけでいくども危機を迎え、パレスチナ人による自爆攻撃とイスラエルの攻撃が相次ぎ、ガザ地区やヨルダン川西岸の状況は悪化しました。やがて、アラファトの人気は低下し、ヨルダン川西岸のラマラにある大統領府は2001年から長らくイスラエル軍による包囲・軟禁状態に置かれ、その間に健康が悪化し死去したのでした。


「11月11日にあった主なできごと」

1620年 メイフラワーの誓い…2か月前にイギリスのプリマス港を出航したメイフラワー号は、この日北アメリカのケープコッドに到着。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる移民たちは船上で、自治の精神に基づき自由で平等な理想的な社会を建設することをめざす誓いをかわしました。こうして、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地のさきがけとなるとともに、その精神はアメリカ民主主義の基となりました。

1881年 ドストエフスキー死去…『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などを著し、トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪ドストエフスキーが亡くなりました。

1918年 第1次世界大戦終結…前年、アメリカ合衆国の参戦により決定的に不利となったドイツは、この日休戦条約に調印。第1次世界大戦が終結しました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジア探検にそそいだ、スウェーデンの探検家ヘディンが亡くなりました。
投稿日:2015年11月11日(水) 05:00

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)