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「化政文化」 と徳川家斉

今日1月7日は、江戸時代後期に松平定信を起用して「寛政の改革」を実施させ、華やかな「化政文化」を生み出すなど、54年の長期にわたり政治を主導した江戸幕府第11代将軍の徳川家斉(とくがわ いえなり)が、1841年に亡くなった日です。

1773年、御三卿(将軍家一族)の1つ一橋治済(はるずみ)の長男として生まれた家斉(幼名・豊千代)は、1781年に第10代将軍家治の養子になって江戸城西の丸に入り、1786年家治の急死を受け、1787年に15歳で第11代将軍に就きました。

まだ若かったことから、白河藩主で名君の誉れの高かった松平定信を老中首座に任命、家治時代に権勢をふるっていた田沼意次を罷免して、積極的に幕府財政の建て直しをはかる「寛政の改革」を実施させました。飢饉に備えて諸大名に備蓄を命ずる「囲米(かこいまい)」の制度、借金に苦しむ旗本らを救済する徳政令の「棄捐(きえん)令」、幕府に都合のよい朱子学だけを奨励する「寛政異学の禁」など、定信の主導する改革は順調にすすみました。

しかし家斉は、方針の相違から定信を6年余りで罷免、定信の元で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命して、改革を推進させました。改革そのものはあまりに厳しいものだったために、世間の評判は芳しくなかったものの、次第に幕府の財政は好転していき、町や農村の生活も落ち着いていきました。

1804年ころから家斉自ら政治を行うようになると、文化の中心はこれまでの上方から江戸に移り、その担い手も豪商から一般町人に広がって、新しい遊び・芸能・文学・美術が生まれ、町人や村民が物見遊山の旅行にでかけるなど「化政(文化・文政)文化」がおこりました。家斉もタカ狩りを楽しむなど江戸城中も華やかになり、家斉はたくさんの側妾(そばめ)を大奥におき、17人の女性に56人の子どもを生ませたといわれています。

やがて、大奥の華やかな生活は幕府の財政を悪化させ、天保年間(1830〜44年)になると、大飢饉に対応できなくなり、1837年には大坂に「大塩平八郎の乱」がおこり、さらに「生田万の乱」など反乱があいついで幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになりました。また、「モリソン号事件」など、海防への不安もいっきに高まっていきました。

そこで家斉は、1837年に次男の家慶(いえよし)に将軍職をゆずるものの「大御所」として実権を握り続けましたが、その4年後に、15代続いた徳川将軍の中でも最長の54年という在位を記録した生涯を閉じました。


「1月7日はこんな日」

「七草がゆ」を食べる日…[せり/なずな(ぺんぺんぐさ)/ごぎょう(ははこぐさ)/はこべら(はこべ)/ほとけのざ(たびらこ)/すずな(かぶ)/すずしろ(だいこん)/春の七草] と歌われる7種類の草を入れたおかゆを食べれば、無病息災という風習です。平安時代以前に中国から伝わったといわれていますが、単なる迷信ではなく、ちょうど正月料理に飽きたころ、冬枯れの季節に青物を補給するという食生活上の効用が指摘されています。


「1月7日にあった主なできごと」

1490年 足利義政死去…室町幕府第8代将軍でありながら政治に興味がなく、11年も続く内乱「応仁の乱」をひきおこすきっかけをこしらえた足利義政が亡くなりました。銀閣寺を建てるなど、東山文化を遺した功績は評価されています。

1835年 前島密誕生…日本の近代郵便制度の創設者で「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めた前島密が生まれました。

1868年 征討令…1月3日〜6日の鳥羽・伏見の戦いに勝利した維新政府は、この日江戸城にこもった徳川慶喜に征討令を出し、同時に諸藩に対して上京を命じました。征討軍の総帥は西郷隆盛。同年4月11日、徳川家の謝罪を条件に江戸城・明け渡し(無血開城)が行なわれました。

1932年 スティムソン・ドクトリン…アメリカの国務長官スティムソンは、この日「満州における日本軍の行動は、パリ不戦条約に違反するもので、これによって生ずる一切の状態を承認することはできない」との声明を発し、日本政府を弾劾しました。これが、太平洋戦争に至るアメリカの対日基本方針となりました。
投稿日:2015年01月07日(水) 05:30

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)