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最新記事【2015年01月08日】

今日1月8日は、信長、秀吉にキリシタン大名として仕えたことで知られる高山右近(たかやま うこん)が、江戸幕府の「キリシタン国外追放令」によりマニラに追放され、1615年に同地で亡くなった日です。

イエズス会のザビエルが、1549年に「キリスト教」を伝えたことはよく知られています。それから10年後、布教の任務をになった宣教師のビレラは、京都で布教を開始し、1563年に大和国沢城主高山(飛騨守)友照一族を受洗させました。1552年、友照の長男として生まれた高山右近は、11歳で洗礼を受けました(洗礼名ドン・ジュスト)が、その信仰のために苦難に満ちた生涯を送ることになりました。

1568年、織田信長の強力な軍事力に守られて、足利義昭が15代将軍となると、高山父子は、信長の武将和田惟政に仕え、高槻城に入りました。1571年に惟政が戦死すると、右近は高槻城主となり、同じ信長の武将である荒木村重の配下となって村重の信頼をえます。ところが1578年、村重は、信長と対抗していた毛利氏と手を結び、反旗をひるがえしました。

村重の謀反を知った右近は、妹や息子、家臣たちを人質に出して謀反を阻止しようとしましたが受け入れられません。右近は尊敬していたオルガンティノ神父に助言を求めると、神父は信長に降るのが正義とアドバイスされました。

村重は右近の人質を殺すことはなかったものの、結果的に右近の離脱は村重勢の敗北の大きな要因となり、この功績を認めた信長は、右近を再度高槻城主とし、2万石から4万石に加増、明智光秀の配下としました。ところが1582年6月、光秀の謀反による「本能寺の変」で信長が亡くなると、光秀の期待に反し、右近は秀吉の元にかけつけ、まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒をつとめて光秀を敗走させました。

以後、秀吉の武将として、「賤ヶ岳の戦い」「小牧・長久手の戦い」「四国征伐」などにも参戦して功績をあげるいっぽう、牧村政治・蒲生氏郷・黒田官兵衛らをキリシタンに導きました。1585年には明石城12万石の城主となりましたが、1587年に秀吉が「バテレン追放令」を出すと、黒田官兵衛らが棄教するものの、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てる道を選びました。小西行長にかくまわれて小豆島や肥後などに住み、翌1588年には、加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地におもむきました。

1590年の「小田原征伐」にも前田軍に属して従軍したばかりか、金沢城修築の際には、右近は見事な築城法を伝授したといわれています。利家亡き後も、嫡男利長に引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になっていましたが、1614年、徳川幕府による「キリシタン国外追放令」を受けてしまいました。

長崎から、マニラに12月に到着。イエズス会やマニラの総督から大歓迎を受けたものの、船旅の疲れや慣れない気候のために病気となり、敬虔な生涯を終えたのでした。


「1月8日にあった主なできごと」

1324年 マルコ・ポーロ死去…ベネチアの商人で、元(中国)に17年も仕え 『東方見聞録』 を遺した旅行家マルコ・ポーロが亡くなりました。

1642年 ガリレオ死去…イタリアの物理学者、天文学者で近代科学を拓いた功績者ガリレオが亡くなりました。

1646年 徳川綱吉誕生…江戸幕府の第5代将軍で、当初はすぐれた政治を行ないましたが、やがて「生類憐みの令」をはじめ、悪政といわれる政治を次々とおこなうようになった徳川綱吉が生まれました。
投稿日:2015年01月08日(木) 05:59

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)