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大衆歌謡の中山晋平

今日3月22日は、『しゃぼん玉』『あの町この町』『うさぎのダンス』などの童謡、『船頭小唄』『東京行進曲』といった流行歌、『東京音頭』などの新民謡と、現在も歌い継がれている大衆歌をたくさん作曲した中山晋平が、1887年に生まれた日です。

長野県新野村(現中野市)の旧家に生まれた中山晋平は、季節ごとに表情を変える美しい自然の中で、のびやかに育っていきました。村祭りの時の笛の名手として異才ぶりを示していたといわれています。父親が亡くなったため、呉服屋に奉公に出るなど、幼いころから苦労しましたが、尋常高等小学校卒業後に代用教員となりました。唱歌が好きで、生徒からも唱歌先生と呼ばれるほどでした。

音楽の世界に生きたいと夢に燃えた晋平は、18歳で上京すると、早稲田大学の教授で新劇指導者でもあった島村抱月と出会いました。願いがかなって抱月の書生として弟子入りし、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入学、1912年に卒業すると、浅草の小学校の教師となりました。

そして1914年、島村抱月が松井須磨子らと旗揚げした「芸術座」の公演に、トルストイ 原作の『復活』を上演しようとしていたとき、晋平は、劇中にうたう歌の作曲を依頼されました。こうして完成した『カチューシャの唄』(♪ カチューシャ可愛いや別れのつらさ…) は、松井須磨子の唄で全国的に大ヒット、さらに翌年公演したツルゲーネフ原作『その前夜』の劇中歌『ゴンドラの唄』(♪ 命短し恋せよ乙女…) も大人気となり、晋平は一躍有名な作曲家にのしあがりました。同時に、その流行をみながら、日本人の誰もが口ずさめるような歌をこしらえることを、改めて決心したのでした。

やがて晋平は、5歳年上の詩人・野口雨情と出会い、『船頭小唄』や『波浮の港』をヒットさせました。そのころ 鈴木三重吉 が主宰した児童雑誌「赤い鳥」が中心となって、芸術的な童謡を作るべきだという新童謡運動が起こると、雨情もまた、新しい童謡に対する情熱に刺激を受け、晋平とのコンビで次々と童謡をヒットさせました。『しゃぼん玉』『あの町この町』『雨ふりお月さん』『こがね虫』『しょじょ寺のたぬきばやし』など、枚挙にいとまがありません。北原白秋との共作『雨降り』『砂山』、西条八十との共作『まりと殿様』なども評判となりました。

さらに、全国各地で口ずさまれる新民謡にも力をそそぎ、ふるさとのために作った『中野小唄』はじめ、『東京音頭』『上州小唄』『松本民謡』などをこしらえました。1929年には西條八十とコンビで作った歌謡曲『東京行進曲』は、佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録しました。晋平メロディは、「晋平ぶし」ともいわれ、その特徴は七音階ドレミファソラシドのファとシを省いた五音短音階で作っているところにあります。これが今日に至るまで歌謡曲の主流となっていて、晋平のメロディラインが自由で自然体であるため、みんなに愛唱されてきたのでしょう。

しかし、戦後はほとんど曲を作ることはなく、1952年、日本の近代的大衆歌謡のスタイルをこしらえあげるという、大きな役割を果たした生涯を終えたのでした。


「3月22日にあった主なできごと」

1932年 ゲーテ死去…、「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いた ゲーテ が亡くなりました。

 

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このたびの「東北関東大震災」により、お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆さまやそのご家族に対し、心よりお見舞い申し上げます。

なお、私事ながら、地震のあった2日前、多少重いものを持ったことが原因で「ぎっくり腰」となり、ほとんど歩行ができなくなってしまいました。1〜2か月は安静にしなくてはと覚悟していたところ、有能な整体師の適切な治療と、「安静などせず、多少痛くてもできるだけ動くように」というアドバイスのおかげで、10日ほどで完治いたしました。6回分を休載しご心配をおかけしましたが、ほぼ日常にもどれそうです。

投稿日:2011年03月22日(火) 06:43

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)