児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  童謡 『かなりや』 の西条八十

童謡 『かなりや』 の西条八十

今日8月12日は、大正・昭和期の詩人で、『かなりや』『鞠(まり)と殿様』『肩たたき』などの童謡、『東京行進曲』『青い山脈』『王将』などの歌謡曲の作詞を手がけた西条八十(さいじょう やそ)が、1970年に亡くなった日です。

1892年東京・牛込の外国石けんを輸入販売する9人兄弟の家に生まれた八十は、幼いころから外国へのあこがれを抱いていました。そのため中学生のころからイギリス人女性に英語を学び、正則英語学校(現・正則学園高校)時代には英語以外にフランス語を学び、1915年に早稲田大学英文科を卒業しました。

早稲田大学在学中に、堀口大学、日夏耿之介らと同人誌を刊行したり、三木露風らと交流しながら詩人をめざしましたが、父親の急死、兄の放蕩、財産の放逸など突然の不幸にみまわれました。そのため、母や兄弟たちを養うために、株取引、てんぷら屋の経営など意にそわない仕事に手をそめ、わずかに残った財産も失ったのでした。

1919年に『赤い鳥』を創刊した鈴木三重吉に童謡創作を依頼された八十は、この年の11月号に『かなりや』(♪ 唄を忘れたかなりやは…)を発表。成田為三の曲を得て大ヒットとなり、八十はいちやく脚光をあびました。この歌は、大正時代の童謡を象徴するものとして、今なお歌われつづけています。やがて自費出版した第一詩集『砂金』では、象徴詩人としての地位を確立しました。

1924年から2年間、フランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊し、帰国後、母校早稲田大学仏文科助教授となり、1931年に教授となりました。
 
教鞭のかたわら、おりから急成長をとげるレコード産業を活気づけたのも八十でした。佐藤千夜子が昭和初期の開放的なモダン東京を歌った『東京行進曲』(中山晋平作曲)は、日本の映画主題歌の第1号としてビクターレコードから発売され、25万枚を売り上げました。さらに民主化の息吹を伝える藤山一郎の躍動感あふれるさわやかな歌声で戦後まもなくヒットした『青い山脈』、異国情緒たっぷりの『蘇州夜曲』、古賀政男ワールドともいうべき『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、船村メロディの傑作として村田英雄の歌う『王将』など無数のヒットを放ちました。八十の手がけた作詞作品は、童謡・歌謡曲をふくめ2500曲を超えるほどで、薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもありました。


「8月12日にあった主なできごと」

紀元前490年 マラソンの始まり…ギリシアのマラトン(英語読みマラソン)で、1万人のギリシア軍と10万人のペルシア軍が戦いギリシア軍が勝利をおさめました。戦いに勝ったことを知らせるために、ギリシア兵のフェイディピデスが首都アテネまでの42,195mを休まずに走り続け「わが軍勝利」といって死んでしまいました。この逸話を記念して、1904年の第1回近代オリンピックから、マラソン競技としてとり入れられました。

紀元前30年 クレオパトラ死去…古代エジプト・プトレマイオス朝最後の女王 クレオパトラ が、毒蛇に身をかませて亡くなったといわれる日です。

1643年 俵屋宗達死去…江戸時代の日本画の最高けっ作といわれる『風神雷神図』 などを描いた江戸時代初期の画家 俵屋宗達 が亡くなりました。

1893年 「君が代」「日の丸」制定…「君が代」など8曲が小学校祝日唱歌に定められ、国民の祝典や学校の式では必ず歌われるようになりました。太平洋戦争後は、天皇を賛美する歌として強制されなくなりましたが、1999年「国旗国歌法」で正式に「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と定められました。国民の誰もがよろこんでうたえる国歌がほしいという声も根強いものがあります。

1962年 太平洋単独横断…堀江謙一が小型ヨット(全長5.8m 幅2m)で兵庫県西宮をたった一人で出発し、93日後のこの日アメリカのサンフランシスコに到着。日本人初の太平洋横断に成功しました。

1985年 日航ジャンボ機墜落…日航機123便が、群馬県御巣鷹山の南にある高天原(たかまがはら)山に墜落。死者520人という日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故では世界最多という大惨事となりました。「上を向いて歩こう」を歌い世界的ヒットをさせた歌手坂本九もこの犠牲者の一人。

投稿日:2010年08月12日(木) 08:55

 <  前の記事 近代落語の創始者・円朝  |  トップページ  |  次の記事 インドネシア建国の父・スカルノ  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2152

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)