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近代落語の創始者・円朝

今日8月11日は、幕末から明治時代に活躍した落語家で、自作の人情話や怪談などで名を高めた初代三遊亭円朝が、1900年に亡くなった日です。

円朝の創作した人情話の代表作・落語「芝浜」の内容は次の通りです。

酒が大好きな魚屋の勝。まさに酒におぼれて、仕事に身が入らない毎日が続きます。ある朝早く、女房にたたき起こされて、いやいやながら芝の魚市場に向かいますが、市場がまだ開いていません。人気のない芝浜で顔を洗ってタバコを吹かしていると、そこで財布を見つけました。開けると中にはおどろくほどの大金。喜びいさんで家へ飛び帰った勝は、仲間を呼んで大酒を飲みだします。

翌朝、二日酔いで起きてきた勝は、女房にこんなに飲んで酒代をどうするのといわれます。勝は、拾った財布をお前に渡しただろといいますが、女房は知らないといい張るばかり。あせった勝は家じゅうを探しまわりますが、どこにもありません。しかたなく勝は、財布のことは夢だとあきらめ、それからは心を入れ替えて酒を絶ち、仕事にはげむようになりました。

その甲斐があって暮らしも安定し、やがていっぱしの店を構えることができた3年後の大晦日の夜のことです。勝は、苦労をねぎらって妻に頭を下げました。すると女房は、勝に例の財布を見せ、告白をはじめます。あの日、勝から拾った大金を見せられてびっくりし、長屋の大家に相談したこと。当時の横領は死罪であると、大家は財布を拾得物として役所に届け出たこと。時が経っても落とし主が現れなかったため、役所から拾い主に財布の大金が下げ渡されこと……を。

真相を知った勝は、自分をだました妻の行為を責めることなく、道をふみはずしそうになった勝を真人間へと立直らせてくれた妻の機転の行為に深く感謝しました。店まで持てるまでに頑張ってきた夫の労をねぎらって、ひさしぶりに酒でもと妻に酒を勧められて勝は、おずおずと杯を手にしました。しかし……、

「よそう。また夢になるといけねぇ」


1839年、円朝(本名出淵次郎吉)は、江戸湯島に生まれました。父も2代目三遊亭円生門下の音曲師橘屋円太郎(出淵長藏)で、次郎吉は7歳のころから見よう見まねで落語を演じ、小円太の名で父といっしょに高座にあがったといわれています。

しかし母親や義兄の反対で落語から離れ、10歳の頃には寺子屋で学び、歌川国芳のもとで画家の修行を積んだり、商家に奉公したりしました。やがて、17歳のとき、父の師である円生に入門、正式に落語家として修業にはげみ、円朝を名乗りました。円朝の得意にしたのは「鳴物噺」でした。これは歌舞伎狂言の味わいで、高座の背後に書割をしつらえて、台拍子、宮神楽、駅路の鈴の音、風の音、波の音などを効果として取り入れる噺で、その華やかな芸風はしだいに人気をよび、「円朝の芝居噺」として喝采を浴びました。こうして21歳のときに、真打ちとなりました。

当時の落語界は「滑稽噺」(お笑い)より、講談に近い「人情噺」や「怪談噺」などに人気があり、これらも見事に演ずる円朝に、師匠である円生はしっとしました。円生は、円朝が演じようとする演目を、先取りをしてしまうのです。こまった円朝は、「人のする話は決してしない」と心にきめ、自作自演の実録人情噺や怪談噺に取り組みました。

代表作のひとつ『牡丹灯籠』をこしらえたのは23歳の時で、『真景累ケ淵(かさねがふち)』とともに、明治20年〜30年代の夏の寄席の一番の呼び物となりました。これらの怪談は、上田秋成の『雨月物語』と並んで文学の1ジャンルとしても評価の高いものです。

生まれて間もない日本語速記術によって、円朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博すようになりました。その後も、『塩原多助一代記』など新作を続々発表し続け、二葉亭四迷らに影響を与えて、文芸における言文一致運動の台頭を促すほどでした。晩年には、明治天皇の御前で『牡丹灯籠』を演じるまでになり、歴代の名人の中でも別格の存在でした。

なお、円朝の『牡丹灯籠』『真景累ケ淵』など39作品は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。


「8月11日にあった主なできごと」

1338年 室町幕府…足利尊氏 は、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。いっぽう、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を建てて、その正当性を主張していました。そのため、政権としての室町幕府はなかなか安定せず、3代将軍 足利義満 の時代になって、ようやく機構的な体裁が整いました。

1892年 吉川英治誕生…『宮本武蔵』『新・平家物語』『新書太閤記』など人生を深く見つめる大衆文芸作品を数多く生み出して、国民的作家として高く評価されている 吉川英治 が生まれました。

1919年 カーネギー死去…「鋼鉄王」とよばれた大実業家であり、公共図書館や大学、カーネギーホールの建設など公益事業に力をそそいだ社会事業家 カーネギー が亡くなりました。

投稿日:2010年08月11日(水) 08:54

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)