今日6月21日は、戦後に活躍した考古学者で、「岩宿遺跡」を発見し、日本に旧石器時代があったことを証明した相沢忠洋(あいざわ ただひろ)が、1926年に生まれた日です。
東京の羽田に生まれた相沢は、幼いときに両親が離婚したため、浅草の履物屋で働きながら、近くにある小学校の夜間部で学びました。その頃から、古代の遺物に興味をおぼえ、帝室博物館(今の東京国立博物館)に通いながら、独学で考古学を学びました。小遣いをはたいて、石器の収集をしたりもしました。
1944年に海軍の志願兵として出征し、駆逐艦の乗組員となりました。終戦とともに群馬県桐生へ住むようになると、子どものころからの夢である考古学への思いは増すばかりで、研究の時間が取りやすい納豆の行商をはじめました。赤城山のふもとの村々を行商するかたわら、縄文土器や石器を採集しては、研究にはげんでいました。
1949年、桐生市郊外にある岩宿の村道の赤土の崖から、槍先形石器など細石器だけの遺跡を発見しました。旧石器ではないかと直感した相沢は、その石器を持って自転車で東京へ出向き、生涯の師となる明治大学院生だった芹沢長介(後の東北大学教授)と出会いました。当時の考古学界では、日本人の歴史は新石器の縄文時代からとされていて、激しい噴火の続いた旧石器の時代には人間が住めなかったと、その存在を否定されていたのです。
この石器を相沢から見せられた芹沢は、上司に連絡、これを受けて同年秋に明治大学は、岩宿遺跡の本格的な発掘を実施しました。その結果、石器が発見された赤土層が「ローム層」といって数万年前にふった火山灰が積もってできた地層にあたるため、日本に旧石器時代の存在が証明されることとなりました。しかし当時、この貴重な発見について、相沢の存在はほとんど無視されました。単なる調査のあっせん者として扱われたばかりか、学界の一部や地元住民から「行商人風情」の売名行為と蔑視され、詐欺師という人さえいました。
しかし、相沢の考古学への情熱は、そんな中傷・誹謗によって冷めるばかりか、地道な研究活動を続け、さらに多くの旧石器遺跡を発見していくのです。しだいに相沢への不当な批判は消えていき、日本の旧石器時代の存在を発見した考古学者として正当な評価がなされるようになります。1967年には吉川英治文化賞を受賞したばかりか、1972年には宇都宮大学の講師となりました。そして、1989年に亡くなるまで、新たな旧石器を求めて、遺跡の発掘を追究しつづけたのでした。まさに、考古学に精魂をこめた「日本のシュリーマン」と讃えられる生涯でした。著書に『「岩宿」の発見』他があります。また、赤城山山麓には「相沢忠洋記念館」があり、発掘した石器類の展示はもちろん、「太古への夢、岩宿遺跡」の放映がされているそうです。
「6月21日にあった主なできごと」
1793年 林子平死去…江戸幕府の鎖国政策に対して警告を発した海防学の先駆者 林子平 が亡くなりました。
1852年 フレーベル死去…世界で初めて幼稚園をつくるなど、小学校就学前の子どもたちのための教育に一生を捧げたドイツの教育者 フレーベル が亡くなりました。
1905年 サルトル誕生…「実存主義」を唱えたフランスの哲学者で、小説家、劇作家、評論家としても活躍した サルトル が生まれました。