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『不如帰』 の徳冨蘆花

今日10月25日は、長編小説『不如帰(ほととぎす)』を著し、一躍ベストセラー作家となった明治・大正期の作家・随筆家の徳冨蘆花(とくとみ ろか)が、1868年に生まれた日です。

蘆花の『不如帰』は、「国民新聞」に連載されたものが1898年に出版され、1909年には再版を重ねて100刷となりました。清純な夫婦愛と、封建的な家族観への批判が熱狂的に支持され、尾崎紅葉の『金色夜叉』、伊藤左千夫の『野菊の墓』と並び、明治生まれの国民文学といわれています。『不如帰』のあらすじは、次の通りです。

陸軍中将の娘である片岡浪子は、海軍少尉の川島武男に嫁ぎました。誰もがうらやむ結婚で、2人は幸福な新婚生活を送っていました。

武男は将来を期待され、浪子の父親の片岡中将からも、実の息子のように可愛がられています。しかし、時は明治、まだまだ江戸時代から続く「お家大事」という封建的な考えが残っていました。武男の母親のお慶は、そんな因習のかたまりのような人でした。おまけにお慶は、武男の友人で甥の千々岩安彦と、浪子をいっしょにさせたかったのに適わなかったのが口惜しく、浪子に優しくありません。結婚後も浪子に横恋慕する千々岩…。

浪子と武男の幸福な生活は、長くは続きませんでした。浪子が肺病(結核)に侵されてしまったのです。浪子の母親も肺病で亡くなっていました。浪子は東京から逗子へ転地療養することになりました。

そんなある日、武男が海軍の勤務で長期間家を留守にしました。なんとお慶は、武男の留守中に浪子を離縁し、里に帰してしまったのです。勤務から帰った武男は、浪子を追いやった母親に激怒して、家を出ました。折りしも日清戦争が始まっていました。武男は艦隊に乗りこんで、清の最強軍艦と戦いますが、武男の乗った軍艦は砲弾を浴びて、武男は重傷を負います。なんとか九死に一生を得るものの、武男は浪子のことがいつまでも心の中からは消えません。

別れ別れになった2人は偶然、京都駅で顔を合わせました。浪子は東京へ向かう列車に、武男は神戸に向かう列車に乗っており、お互いを見かけたのです。まさに瞬間の再会でしたが、これが永遠の別れになってしまったのでした……。


蘆花は、学者の次男として肥後国(熊本県)に生まれました。兄は、思想家でジャーナリストとして名高い徳冨蘇峰です。プロテスタントの宣教師たちのグループ「熊本バンド」のひとりとして、京都の同志社に学び、キリスト教の影響を受けながら、ロシアの文豪トルストイに傾倒しました。

卒業後は20歳で上京し、兄の「民友社」に入って記者をしながら下積みを重ね、自然詩人として出発しました。そして新聞連載小説『不如帰』、続いて発表した随筆集『自然と人生』『思出の記』により、作家としての地位を確立しました。しかし、国家主義的傾向を強める兄とは次第に不仲となって絶縁、思想的な悩みもあって、1906年聖地エルサレムに巡礼に出かけ、帰国途中にトルストイの自宅を訪問して会見をはたしています。

帰国後の1907年、現在の東京都世田谷区粕谷に転居、死去するまでの20年間をこの地で過ごしました。1927年に病に倒れ、伊香保温泉で蘇峰と再会、和解して亡くなりました。

蘆花の死後、旧邸宅は夫人より東京市に寄贈されました。いまも東京都の史跡「蘆花恒春園」として開放されています。蘆花の名は、恒春園近くの芦花小学校、芦花中学校、京王線「芦花公園駅」にも残っています。また、『不如帰』の中の浪子の言葉「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」は、日本近代文学を代表する名セリフの一つといわれ、今も口ずさまれています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、蘆花の作品『不如帰』ほか9編を読むことができます。


「10月25日にあった主なできごと」

1637年 島原の乱…島原・天草地方のキリシタンの農民たち37000人が、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年 天草四郎 を大将に一揆を起こしました。3か月余り島原の原城に籠城して抵抗しました。

1825年 ヨハンシュトラウス誕生…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家 ヨハンシュトラウス(2世) が生まれました。

1838年 ビゼー誕生…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家 ビゼー が生まれました。

1881年 ピカソ誕生…画家であり、彫刻家であり、また歴史家、詩人、学者でもあった情熱的芸術家 ピカソ が生まれました。

投稿日:2010年10月25日(月) 07:09

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)