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ピアノ王・リスト

今日8月22日は、『ハンガリア狂詩曲』『ラ・カンパネラ』『愛の夢』など名曲の数々を作曲したハンガリー生まれの作曲家・演奏家のリストが、1811年に生まれた日です。

フランツ・リストは、ハンガリーのライディングという小さな町に生まれました。父は、貴族に仕えて土地管理人をつとめながら、その貴族がかかえる楽団でチェロをひいていました。すぐれた演奏家ではありませんでしたが、なによりも音楽が好きでした。

6歳のときから父にピアノを習いはじめたリストは、またたくまに自由にピアノをあやつるようになりました。やがて、父につれられて上流階級の家をたずねては、ピアノをひくようになり、9歳のときには、父の仕える貴族の宮廷で演奏会を開き、居並ぶ人たちに「天才だ」と叫ばせました。

10歳になったりストは、ある貴族から6年間の奨学金をだしてもらえることになりました。わが子の将来のために引っ越しまで考えた両親といっしょに、ワイマールへ行き、当時のヨーロッパでは最高のピアノ奏者といわれていたフルメンのもとへ、弟子入りをたのみに行ったのです。ところが、奨学金を全部つぎこんでも払えないほどの謝礼をつきつけられ、追い返されてしまいました。

しかたなく、こんどはウィーンへ行き、父が考えていたもう一人の先生に弟子入りをたのみました。その先生こそ、多くの名ピアニストを育てたチェルニーです。たった1度リストの演奏を聞いた瞬間チェルニーは、その能力に感嘆し、いっさい謝礼を受け取らなかったばかりか作曲の指導をして、ベートーベンシューベルト の先生でもあったサリエリを紹介してくれました。リストは、家では両親に、外ではすばらしい先生にはげまされて、大音楽家への道を進んでいきました。

演奏家としての仕上げは、フランス音楽院で学ばせたいと考えた父は、リストを連れてパリへ旅立ちました。ところが、フランス人以外はだめと入学をことわられてしまいました。しかし、リストの演奏の素晴らしさに感動したエラールというピアノメーカーの支援で、第1回演奏会をパリの王立歌劇場で開いたところ、劇場をうずめつくした2千人の人びとから大かっさいを浴びました。パリでのデビューに成功したリストは、こんどはロンドンへ渡り、国王ジョージ4世から、「まるで神の音楽だ」 とたたえられました。もはや世界のリストです。ロンドンへの旅をくりかえすかたわら、ドイツへも、スイスへも出かけ、ヨーロッパ一の演奏家として知られるようになりました。

ところが、リストが16歳の年に、父が旅先で病にたおれ、あっけなく死んでしまったのです。すべての世話をしてくれた父がいなくなれば、思うように演奏会も開けず、演奏会が開けなければ収入を得ることもできません。リストは、一時は途方にくれました。しかし、わが子のためにいっしようけんめい生きてくれた父の心を思い、生活はピアノの家庭教師で支えていくことを決めて、母を守りながら、一人で歩みはじめました。

そのころ、リストは貴族の娘に恋におちました。しかし、娘の父親に引き裂かれ、失意のうちにそのショックから音楽を離れて、読書にふけるほど、繊細な神経の持ち主でした。そんなとき、フランスに「7月革命」がおきました。古い王政に反対して立ちあがったパリ市民が、3日間、国の軍隊と戦って勝利をおさめた勇ましい人びとの姿に、リストの目がさまされたのです。そして、バイオリンの鬼才といわれたパガニーニの演奏を耳にしたときは、いつまでもふるえのとまらない感激におそわれ、「ぼくは、ピアノのパガニーニになる」 と叫ぶのでした。リストは、こんどこそ、ほんとうに、一人で歩きはじめたのです。やがて、ショパン とも、二人で連弾を楽しむほどに親しくなり、天才ピアニスト・リストの人気を、たちまちとりもどしていきました。

演奏家として「ピアノの魔術師」といわれるほどの腕前をみせたリストでしたが、やがて、演奏会をつづけながら、あるいは恋に苦しみながら、またワーグナー、スメタナ、グリークら若い音楽家の指導にあたりながら作曲をつづけ、無数といってよいくらいの、ピアノを中心とした器楽曲や管弦楽による交響詩、宗教曲や合唱曲などを残しました。もっとも有名な作品『ハンガリア狂詩曲』は、ハンガリーに住むジプシー(ロマ)のあいだに伝わる舞曲(チャルダッシュ)を素材にした19曲で構成されるもので、およそ40年の歳月をかけて作曲されたものです。この作品によって、近代ピアノ技法の基礎が築かれたといわれています。また交響詩という新しい分野を創造し確立するなど「ピアノ王」として讃えられた75年の生涯を、1886年に閉じました。


「10月22日にあった主なできごと」

794年 平安京に遷都…桓武天皇はこれまでの長岡京から、この日平安京に都を移しました。南北を38町に区切り、39の大路・小路を東西に通して1条から9条に分けた京の都は、明治維新まで1100年近くも続きました。

1906年 セザンヌ死去…ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家 セザンヌ が亡くなりました。

1962年 キューバ危機…ソビエトがキューバに攻撃用ミサイル基地を建設中との情報を入手したアメリカのケネディ大統領は、この日全米に「海上封鎖を予告する」とテレビで演説、ソビエトのフルシチョフ首相に対し「封鎖を破るものは、ソ連船でも撃沈する」と警告を発しました。ソビエトはこれをアメリカの海賊行為と非難したため、核戦争の始まりかと世界中を震撼させました。しかし28日、ソビエトはミサイル基地の撤去を発表、危機は回避されました。

投稿日:2010年10月22日(金) 07:32

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)