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ワルツ王・ヨハンシュトラウス

今日6月3日は、ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家ヨハンシュトラウス(2世)が、1899年に亡くなった日です。

ヨハンシュトラウスは、「ワルツの父」といわれる同姓同名の父親の長男として1825年、ウィーンに生まれました。弟のヨーゼフ、エドワルトもワルツの傑作を残していますから、典型的な音楽一家といってよいでしょう。

オーストリアには、古くからゆったりとしたテンポの3/4拍子の舞曲があって、地方の村々で踊られていました。18世紀の中ごろになると、ウィーンでも「レンドラー」(いなか踊り)として、場末の居酒屋や茶店などで演奏されるようになりました。このレンドラーを基に、もっとテンポの速い洗練された「ウインナーワルツ」を作り上げたのが、ヨーゼフ・ランナー(1801-1843)という人でした。自身のオーケストラで新曲を次々に発表し、ウィーンの人々の人気を集めるようになりました。

このランナーのオーケストラでバイオリンを弾いていたのが、「ワルツの父」ヨハンシュトラウス1世(1804-1849)で、ランナーのウィンナーワルツをさらに優雅に磨き上げた作品『ラデッキー行進曲』などを発表、ランナーから独立し、二人は華やかな「ワルツ合戦」を演じました。

父は、息子たちが音楽の才能に恵まれているのはわかっていましたが音楽家としての道を歩むことには反対でした。音楽の都ウィーンで激しい競争を続けながら生きぬいていくことが、どんなに大変なことか身をもって体験していたからです。そのため、ヨハン2世は大学で経済学を専攻させられました。

ところが、父親に愛人ができ、愛人のもとに走ってしまいます。ヨハン2世が作曲家として活動しはじめたのはそれがきっかけで、オーケストラを組織し、ウィーンの一流の酒場で演奏会を開いたところ大成功、陽気で愉快で楽天的な気分にさせる曲の数々に、たちまちウィーンの人気楽団になったのでした。

やがて父とも和解して、ライバル作曲家となりました。父親が他界してからは、いよいよ2世の独壇場となり、「ワルツ王」として君臨することになりました。

なお、ヨハンシュトラウス(2世)はワルツ以外にも、『こうもり』『ジプシー男爵』などのオペレッタを作曲し、ポルカや舞踏曲もあわせると生涯の作品総数は500曲にもなるといわれています。


「6月3日にあった主なできごと」
 
1853年 黒船来航…アメリカ海軍に所属する東インド艦隊司令長官 ペリー は、日本に開国をせまる大統領の親書をたずさえて、この日4隻の黒船で江戸湾浦賀(横須賀市浦賀)に来航。「黒船あらわれる」というニュースに、幕府や江戸の町は大騒ぎとなりました。翌年、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府はペリーの威圧に日米和親条約を締結して、200年余り続いた鎖国が終わりをつげることになりました。

1875年 ビゼー死去…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家 ビゼー が亡くなりました。

1961年 ウィーン会談…アメリカ大統領 ケネディ と、ソ連最高指導者 フルシチョフ は、オーストリアのウィーンで、東西ドイツに分裂・対立するドイツ問題についての会談を行ないました。フルシチョフが西ベルリンに西側の軍隊が駐留するのは侵略行為、侵略を阻止するためには戦争も辞さないと主張。ケネディは、どんな危険を冒しても西ベルリンを守りきると、2人の意見は完全に対立しました。これにより、東側は逃亡者を防ぐための (社会主義化した東ベルリンから、自由を求めて西ベルリンへ逃亡する人は400万人ともいわれました) 強固なベルリンの壁を建造し、ベルリンをめぐる東西間の緊張が一段と高まりました

投稿日:2010年06月03日(木) 09:17

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)