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秀吉と毛利の和議

今日6月4日は、「本能寺の変」(6月2日ブログ参照) で主君 織田信長 の死を知った 羽柴(豊臣)秀吉 が、1582年に毛利家と和議を結んだ日です。

中国地方一帯を制覇した戦国大名毛利元就(もとなり)は、隆元・元春・隆景の3人の子を呼んで、3本の矢を示していいました。「この矢を1本ずつ折ることは、いともたやすいことだ。しかし、この3本を束ねたら、どうじゃ、これはとても折れるものではない」──と。この話は、「三矢(さんし)の訓」として有名です。一人ずつでは力は弱いが、3人が力をあわせれば、恐れるものではない。仲良く手を組んで助け合っていかなくてはならない、という教えでした。

そして元就は、毛利本家の家督を隆元に譲り、元春を吉川(きっかわ)家に、隆景を小早川家に養子縁組をして、毛利グループの同盟関係を密にしたのでした。

さて信長の命で、中国平定のための活動をしていた羽柴秀吉は、小早川隆景の部下である清水宗治のいる備中高松城を水攻めにしていました。小早川隆景は吉川元春とともに援軍にかけつけましたが近づけません。そのため、毛利側は和議をしようと近くの寺の僧侶になかだちを依頼し、秀吉側と条件面での詰めをしていました。

そんな6月3日の夜、秀吉軍があやしい農民風の男を捕らえました。男は明智光秀から毛利への隠密でした。男が持っていた密書には、信長を討ったことが書かれており、それにより秀吉はいち早く変事を知りました。

秀吉はただちに隠密を斬り、翌朝交渉にやってきた僧侶に、高松城を守る清水宗治一人が腹を切ればこの場は和議して兵を引くというものでした。こうして正式に毛利と和議の誓紙を交換するや秀吉はあわただしく、京都へむかいました。

まもなく毛利方に「本能寺の変」の知らせが届きました。吉川元春は秀吉にまんまとあざむかれたことを知り、秀吉追撃の準備を始めました。しかし、小早川隆景はかけひきは戦の常、結んだ和議は和議、これを守るべきと主張します。そして、「三矢の訓」を守り、こんな時こそ団結すべきであると兄を説得しました。

こうして秀吉は、背後の心配をせずにただちに引き返すことができ、6月13日摂津と山城の国境 「山崎の戦」で、光秀を討ったのでした。


「6月4日にあった主なできごと」

822年 最澄死去…平安時代の初期に、天台宗をひらいた僧 最澄 が亡くなりました。

1928年 張作霖爆殺事件…満州軍閥の張作霖が、日本の関東軍によって暗殺される事件がおこりました。 (2009.6.4ブログ参照)
 
1989年 六四天安門事件…言論の自由化を推進し「開明的指導者」として国民の支持を集めた胡耀邦(こようほう)の死がきっかけとなって、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対して、「中国人民解放軍」は戦車、装甲車を出動させ無差別発砲を行なって武力弾圧。中国共産党の発表は、死者は319人としていますが、数百人から数万人の多数におよんだといわれます。

投稿日:2010年06月04日(金) 09:14

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)