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『野菊の墓』 の伊藤左千夫

8月18日は、歌人として 正岡子規 に師事、写生の短歌を継承して斎藤茂吉らを育て、小説『野菊の墓』を著した伊藤左千夫が、1864年に生まれた日です。

伊藤左千夫は、現在の千葉県山武(さんむ)市の農家に生まれ、政治家をめざして明治法律学校(現明治大学)に学びましたが、眼病のために中退。ふたたび上京して牧場で働いたのち、実業家をめざして牛乳搾取業を営みましたが、1900年、正岡子規の短歌革新運動に共鳴して子規に師事、短歌の世界に生き甲斐を見いだして、次の歌を詠みました。

牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起る

こうして、左千夫は歌人として本格的な活動をすることになりますが、この時すでに37歳。50歳でなくなるまで、歌人、作家として活躍したのはわずか13年にすぎません。この短い期間に短歌雑誌「馬酔木(あしび)」「アララギ」を創始し、門下から島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明らの歌人を輩出させ、アララギ派興隆の基礎をつくました。さらに、小説の筆もとり『隣の嫁』『分家』などを著しましたが、特に有名なのは、少年の頃のはかない恋を回想した『野菊の墓』。あらすじは、次の通りです。

『主人公の政夫は、15歳。いとこの民子は2歳上の17歳。政夫の母が病気がちなため、民子は、政夫の家へ家事の手伝いや看護のために来ていました。二人は、大の仲良しでいつも無邪気に遊んだりしていましたが、家の者たちや村人たちは二人の仲をうわさするようになります。政夫の母は、二人を呼びつけ、人の口がうるさいから、少しは気をつけるようにと小言をいいました。以来、民子は人が変わったように、政夫をさけるようになりました。ある日、政夫は母のいいつけでナスをもいでいると、民子がざるを持って政夫のうしろに立っていました。すでに二人の間に小さな恋心がめばえていたのでした。後日、綿畑で「野菊が好き」「りんどうが好き」という間接的な恋の告白をした日の晩遅く帰った二人に対し、理解の深かった政夫の母も、家の者たちの非難に負け、二人を引き離すために政夫を早々と中学に通うための下宿へおいやるのでした。政夫は町へもどる前日、自分がいなくなってから見てくれと、1通の手紙を民子に渡しました。翌朝、民子は小雨の降る「矢切の渡し」で、一言も言葉を交わすことなく、政夫を見送りました。これが、生涯の別れになることも知らずに。1年後の冬休みに家にもどった政夫は、民子が嫁に行ったことを知りました。さみしく学校へ戻った政夫のところへ、家から「スグカエレ」という電報がとどきました。民子が帰らぬ人になったというのです。死の床で、民子が胸にしっかり握っていた袋の中にあったのは、政夫からの手紙でした……』

当時 夏目漱石 は左千夫あての手紙で「自然で、淡白で、可哀想で、美しくて、野趣があって」こんな小説なら「何百篇よんでもよろしい」と評しました。この小説に感銘し、1955年に映画化した木下恵介監督の『野菊の如き君なりき』は、黒澤明 監督の『七人の侍』をおさえ、キネマ旬報年間最優秀賞に輝いています。
 

「8月18日にあった主なできごと」

1227年 チンギスハン死去…モンゴル帝国の初代皇帝で、モンゴルから中央アジア、西アジア、中国の一部までを征服した チンギスハン が亡くなりました。

1598年 豊臣秀吉死去…織田信長の後をついで天下統一を果たし、絢爛豪華な安土桃山時代を築いた武将 豊臣秀吉 が亡くなりました。


* ブログを9月中旬まで休載いたします。

上記の通り、2日遅れで8月18日のブログを掲載いたしました。

山梨新倉庫の建設にともない、山梨山荘にネット環境が整ったということで、アップを試みましたがコンピューターがいうことをきいてくれませんでした。本日、本社に出社してアップしましたが、ここしばらくは荷物の移動、整理などで時間がとれそうもなく、9月中旬までブログを休載することになりました。悪しからずご了承ください。

投稿日:2009年08月20日(木) 09:41

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)