今日3月11日は、イタリア・ルネッサンス期の画家で『ビーナスの誕生』や『春』を描いたボッティチェリが、1444年に生まれたとされる日です。
サンドロ・ボッティチェリの本名は、アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・バンニ・フィリペーピ。名前のアレッサンドロは省略されていつのまにかサンドロになりました。それからボッティチェリは「小さい樽」の意味で、ボッティチェリの兄さんが太っていたためにこのあだ名がつき、やがて家族じゅうがボッティチェリを名乗りだしたということです。
皮なめし職人の子として、フィレンツェに生まれたボッティチェリは、父が教育熱心だったために、基礎教育をしっかり受けました。そして、金細工や絵を描くことに能力を発揮しだし、15歳で有名な工房を開いていたフィリッポ・リッピに弟子入りしました。
フィリッポはすぐにボッティチェリの才能に気づき、宗教画、神話画などの作品の手伝いをさせました。その後、フィレンツェを離れたフィリッポの紹介で、20歳の時にベロッキオ工房に移りました。
二人の著名な師の影響を受けて、ボッティチェリの腕は磨かれ、表情や視線、手の仕草など、独自のしっとりした気品のある描き方を身につけていきました。
フィレンツェの実質的な支配者として君臨していたメディチ家と親密な関係になり、ロレンツォ豪華王や弟ジュリアーノの主宰する知識人サークル「プラトン・アカデミー」にもよく出入りしていました。
ボッティチェリが芸術家として、最もすばらしい時期に制作したのは『春』『ビーナスの誕生』などを描いた1480年代の前半だといわれています。『春』はテーマとしても前例のない、等身大のギリシア神話を描いた名画です。『春』『ビーナスの誕生』につきましては、ブログ (2007.8.30) (2007.8.31)を参考にしてください。
バザーリという伝記作家によると、ボッティチェリは「非常に愉快な人物」で、友人や弟子たちに悪ふざけをしたりするユーモアあふれる人だったようです。しかし、サボナローラという宗教家の、説教壇から激烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判する宗教家に共鳴したことから、精神的な悩みに苦しみだしました。
まもなく、親友ロレンツォ豪華王が亡くなってパトロンを失ったばかりか、サボナローラが処刑されると、ボッティチェリは精神的にも社会的にも孤立したばかりか、制作意欲をなくして1510年、さみしくこの世を去りました。
ボッティチェリが再評価されだしたのは、死後400年もたった19世紀末、『オフィーリア』の絵で有名なミレイらイギリスのラファエル前派に注目されたことから名声が広まったのでした。
「3月11日にあった主なできごと」
1582年 武田氏の滅亡…信長・家康軍に挟みうちされた武田勝頼はこの日に自刃、19代400年にもわたって甲斐の国(山梨県)を支配してきた武田氏は滅びてしまいました。
1955年 フレミング死去…青かびからとりだした物質が大きな殺菌力をもつことを偶然に発見し、ペニシリンと命名して世界の医学者を驚かせたフレミングが亡くなりました。