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最新記事【2018年06月27日】


● 今日(6月27日)の主なできごと

1582年 清洲会議……織田信長の後継を決める会議が清洲城で開催された。信長の長男信忠の子であるわずか2歳の三法師(秀信)を擁立した羽柴秀吉が、信長の3男の織田信孝を擁立した柴田勝家との争いに勝利し、実権を握った。

1994年 松本サリン事件……松本市の住宅街で有毒ガスのサリンがまかれ、死者7人、重軽傷者660人に及んだ。当初第一発見者の会社員が犯行を疑われたが、後にオウム真理教の犯行と判明。警察・マスコミが報道の行きすぎを謝罪した。


● 今日の主な記念日・恒例日

演説の日……1874年のこの日、慶応義塾を創設した福沢諭吉が三田演説館で日本初の演説会を行った。「演説」という言葉を創ったのも福沢で、「日本が欧米と対等の立場に立つためには演説の力をつけることが必要」と説いた。


● 今日生まれた人

1789年 ジルヒャー……ドイツの作曲家。ドイツ民謡となっている多くの曲を作曲。ハイネの詩に曲をつけた『ローレライ』が特に有名。

1850年 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)……ギリシャ出身で日本に帰化した文学者・随筆家。「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介。

1880年 ヘレンケラー……アメリカの著述家・社会福祉事業家。三重苦を克服した「奇跡の人」

1949年 永山則夫……昭和・平成期の連続射殺事件犯人・獄中小説家。手記『無知の涙』小説『木橋(きはし)』など。


● 今日亡くなった人

1574年 バザーリ……イタリアの画家・建築家・文筆家。

1793年 高山彦九郎……江戸時代中期の勤王思想家。

1809年 上田秋成……江戸時代後期の小説家・国学者・歌人。代表作『雨月物語』『春雨物語』など。

1910年 ボアソナード……フランスの法学者。日本の刑法・民法を起草。

1936年 鈴木三重吉……明治・大正期の小説家・児童文学者。雑誌『赤い鳥』主宰。

1946年 松岡洋右……大正・昭和期の外交官・政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など。

2001年 トーベ・ヤンソン……フィンランドの女流児童文学作家。代表作『ムーミン』シリーズなど。


● 過去のマイブログ「6月27日」のテーマ

2014年 『芸術家列伝』 のバザーリ
イタリア・ルネサンス期の画家・建築家で、ルネサンス期の芸術家百数十人の評伝を著した文筆家として知られるバザーリが、1574年に亡くなった日です。1511年、イタリア中央部の都市アレッツォに生まれたジョルジョ・バザーリは、フランス人画家のマルシラ工房に入って修行したのちフィレンツェに出て、バンディネリらに学び、1529年サルビアーティと共同で工房を開きました。1531年、メディチ家の枢機卿に伴ってローマを訪れ、ミケランとジェロやラファエロらの作品にふれ、大きな感銘を受けました……。

2013年 「旅の思想家」 高山彦九郎
江戸時代中期の尊皇思想家としてぼう大な日記を残し、吉田松陰ら幕末の志士たちに多くの影響を与えた高山彦九郎(たかやま ひこくろう)が、1793年に亡くなった日です。1747年、上野国新田郡(にったごおり・いまの群馬県太田市)郷士の子として生まれた高山彦九郎(本名・正之)は、13歳の時に南北朝時代の歴史書『太平記』を読んで、後醍醐天皇のたてた建武新政府の忠臣の行動に感銘しました。さらに、自分の先祖が、忠臣のひとりである新田義貞に仕えていたことを知りました。これがきっかけとなって……。

2012年  強気の外交官・松岡洋右
日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要場面に外交官ないしは外務大臣として関わった松岡洋右(まつおか ようすけ)が、1946年に亡くなった日です。1880年、山口県室積村(現・光市)の廻船問屋に生まれた洋右は、11歳の時に父が事業に失敗して破産したことで、渡米して成功を収めた親戚をたよって、1893年に渡米しました。しかし、当時のアメリカは、東洋人に対する人種差別や排斥が激しく、労働移民のような状況でした。苦学のすえ、オレゴン大学法学部に入学し1900年に卒業、1902年に帰国するまでの9年間の体験から……。

2011年 『ローレライ』 のジルヒャー
歌曲『ローレライ』などたくさんの歌曲を作曲したドイツのジルヒャーが、1789年に生まれた日です。ドイツ南部のシュナイトという町で生まれたフリードリッヒ・ジルヒャーは、父に音楽の手ほどきを受けながら、オルガニストのアウバーレンに学びました。ジルヒャーの才能を見抜いたアウバーレンは、ジルヒャーを音楽教師にしようと、徹底的な教育をします。やがて、家庭教師や女学校の教師をするようになったジルヒャーは、のちに『魔弾の射手』を発表するウェーバーと出会ってふれあううち、音楽家として生きていくことを決意します……。

2008年 「雨月物語」 の上田秋成
わが国怪奇文学の最高傑作といわれる 「雨月物語」 を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が、1809年に亡くなった日です。丈部左門(はせべ さもん) は、あるとき旅先で病気で苦しんでいる赤穴宗右衛門(あかな そうえもん)を助けました。そして、心がとけあったふたりは、やがて兄弟のちぎりをむすびました。ある日、宗右衛門は、秋の菊の節句には必ずもどると約束して、郷里へ旅立ちました。さて、菊の節句の日、左門が待ちわびていると、夜になって宗右衛門がもどってきました。ところが、宗右衛門は、左門が用意した酒ものまず「わたしは、もうこの世にはいないのです」といって、かき消すように見えなくなってしまいました……。

2007年  鈴木三重吉と 「赤い鳥」
児童雑誌 「赤い鳥」を創刊した鈴木三重吉が、児童文学を愛する人々におしまれながら、1936年に亡くなった日です。三重吉は、帝国大学(いまの東大)に在学中、グリムやアンデルセンの童話を原書で読んだり、師である夏目漱石から借りた世界各国の子ども文学に親しむうち、日本の作品が世界水準より、はるかに劣っていることを強く感じ、なんとか優れたものにしたいと考えるようになりました。卒業後は、中学校の先生をしながら大人向けの小説をかいていましたが、1916年に長女が生まれたのをきっかけに、童話を書くようになりました……。

2006年  マンガと絵本
最近は 「子どもとマンガ」 のことがあまり口にされなくなりました。これは、子どもたちがマンガを読まなくなったからでも、こんなにマンガばかり読んでいていいのかという不安がなくなったからでもありません。その理由の最も大きなものは 「これだけ子どもの生活に入りこんでしまったものを、批判ばかりしていてもはじまらない。質の高い作品に見られる芸術性や児童文化財としての価値をみとめ、マンガはもう子どもたちとは切り離せないものとして、とらえ直していこう」 という考えから、子どもたちの生活にすっかり受け入れられてしまったからです。しかし、「こんなにマンガばかり読んでいていいのかしら」 という不安がなくなったのではない……。

2005年  J総業の倒産
1976年8月20日、ついに運命の日を迎えた。手形の決済というのは、同一地域の金融機関が手形交換所に手形や小切手など有価証券を持ち寄り、お互いに提示しあって決済する仕組みになっている。通常、午後3時頃までにこれが行われるため、3時半すぎに銀行に問い合わせると結果を教えてもらえた。この日もその時間に電話してみる。まだ決済されていない。4時、まだだめ。4時半、5時、6時・・・。もう、あきらめざるを得ない。この時ほど、時間が長く感じられたことはなかった……。
投稿日:2018年06月27日(水) 05:17

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)