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2018年版 6月23日はこんな日


● 今日(6月23日)の主なできごと

1944年 昭和新山誕生……北海道の有珠山東麓の畑地に水蒸気爆発がおこった。この日から10月末まで爆発をくりかえし、11月には土地の隆起と溶岩で出来た「ドーム」とともに407mの新山となり、翌年「昭和新山」と命名された。

1991年 ル・マン24時間耐久レースで日本車が初優勝……この日、フランスの第59回「ル・マン24時間耐久レース」が行われ、ロータリーエンジンを搭載したマツダ・787が、メルセデスベンツを大逆転の末、日本車として初めて優勝を果たした。13回目の挑戦による快挙だった。


● 今日の主な記念日・恒例日

沖縄慰霊の日……1945年のこの日、牛島満大将らが自決し、太平洋戦争中に日本で唯一の地上戦がおこなわれた沖縄における組織的戦闘が終結。80日にもおよぶ地上戦で、住民を中心に23万人以上もの犠牲者を出した。これにちなみ、1961年から沖縄県を中心に実施。

オリンピック・デー……1894年のこの日、フランスのクーベルタン男爵の提唱によりオリンピック復興に関する国際会議がパリで開催され、1896年にアテネで第1回オリンピック大会の開催を決議。これを記念した日で、日本では日本オリンピック委員会(JOC)が1948年から実施。


● 今日生まれた人

1794年 水野忠邦……江戸時代後期の政治家。「天保の改革」を主導。

1836年 加藤弘之……幕末から明治期の政治学者。代表著作『国体新論』『人権新説』『強者の権利の競争』など。

1858年 成瀬仁藏……明治・大正期の女子教育者。日本女子大学創立。

1859年 ミシュラン……フランスの経営者。ミシュランタイヤ創業、「ミシュラン・ガイド」発刊。

1889年 三木露風……明治・大正・昭和期の詩人。『赤とんぼ』の作詞など、北原白秋と並び「白露時代」と称された。

1891年 岸田劉生……明治・大正・昭和期の洋画家。代表作『麗子微笑』『麗子五歳之像』など。

1894年 キンゼイ……アメリカの動物学者・性科学者。「キンゼイ報告」が著名。

1928年 河合隼雄……昭和・平成期の臨床心理学者。

1935年 筑紫哲也……平成期のジャーナリスト・ニュースキャスター。


● 今日亡くなった人

1908年 国木田独歩……明治期の作家・詩人・ジャーナリスト。代表作『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』 など。

1961年 青野季吉……大正・昭和期の文芸評論家。

1967年 壺井栄……昭和期の女流作家。代表作『二十四の瞳』『坂道』『母のない子と子のない母と』など。

1986年 桜田一郎……昭和期の高分子化学者。


● 過去のマイブログ「6月23日」のテーマ

2015年 「ビニロンの発明者」 桜田一郎
でんぷん、セルロース、タンパク質、プラスチックなど、大きな分子でできている物質を扱う「高分子化学」分野で、先駆者といわれる桜田一郎(さくらだ いちろう)が、1986年に亡くなった日です。1904年、京都に生まれた桜田一郎は、京都帝国大学(京都大)工学部を卒業後、コロイド科学・繊維化学・高分子化学研究の道に入りました。1928年からドイツへ留学し、ライブツィヒのオストワルトやベルリンにあるカイザー・ウィルヘルム研究所のヘスのもとで高分子化学の先端技術を吸収し、帰国後……。

2014年 「プロレタリア文学」 と青野季吉
大正末期から昭和初期に盛んとなった、プロレタリア文学の理論的指導者として活躍した文芸評論家の青野季吉(あおの すえきち)が、 1961年に亡くなった日です。1890年、新潟県佐渡ヶ島の廻船問屋兼酒造業「青野屋」に10人兄弟の末子として生まれた青野季吉でしたが、この年に大規模な米騒動があり、持船は焼かれ、家も打ちこわしにあいました。生まれたばかりの季吉は母に背負われて山へ逃げたと、のちに回想しています……。

2011年 『麗子像』 の岸田劉生
大正から昭和初期に活躍した洋画家の岸田劉生(きしだ りゅうせい)が、1891年に生まれた日です。明治の先覚者として名高いジャーナリスト岸田吟香(ぎんこう)の子として東京銀座に生まれた劉生は、絵の好きだった父や乳母の影響を受けて、幼い頃から絵が大好きでした。小学生の時には同級生と作った雑誌にさし絵などを描くほどでした。1908年に東京高等師範(のちの東京教育大)を中退すると、黒田清輝の主宰する白馬会美術研究所に入って洋画を学び……。

2010年 「赤とんぼ」 の三木露風
近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並び「白露時代」と称された三木露風が、1889年に生まれた日です。「♪夕焼け、小焼の 赤とんぼ……」 日本人の誰もが知っている「赤とんぼ」を作詞したのが、露風です。1889年、兵庫県の龍野町(現・たつの市)に生まれた露風は、5歳の時に両親が離婚しました。幼稚園から帰ったある日、生母が弟を連れて島根の実家へ帰ってしまったことを知ったとき、露風のショックはどんなに大きなものだったでしょう……。

2009年 「二十四の瞳」 の壺井栄
『二十四の瞳』『坂道』『母のない子と子のない母と』などを著した女流作家 壺井栄(つぼい さかえ)が、1967年に亡くなった日です。壺井栄は、1899年香川県の小豆島にしょうゆ樽職人の5女として生まれました。蔵元の倒産により、経済状態が厳しく苦労を重ねましたが、高等小学校を卒業後、およそ10年間、村の郵便局や役場に勤めました。1925年に上京して、小豆島出身の詩人・壺井繁治と結婚しましたが、若い頃は、あまり文学には関心がなく、平凡な主婦として過ごしていたようです……。

2008年  自然と人生をかいた明治期の作家・国木田独歩
『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』『源叔父』 などの著作をはじめ、詩人、ジャーナリスト、編集者として明治期に活躍した国木田独歩(くにきだ どっぽ) が、1908年に亡くなった日です。自然文学の名作 『武蔵野』 を書いた独歩は、1871年、明治時代の幕が開いてまもなく千葉県の銚子で生まれました。少年時代のおおくは、裁判所書記官だった父の転勤で、山口、広島、岩国など山陽の各地ですごしました……。

2006年  おおかみと7ひきの子やぎ
子どものための世界の聖典といわれるグリム童話は、ヤコブ、ウィルヘルムのグリム兄弟が、ドイツに古くから語り伝えられている昔話を集めたものです。したがって、もともと 「語り聞かせ」 のために生まれたものです。「おおかみと七ひきの子やぎ」 は、そのグリム童話の中でも、もっとも親しまれている話の一つです。なぜでしょうか。それは、おおかみが、やぎを食い、そのおおかみが最後には殺されるという残酷な話の中に母が子を思う心、子が母を慕う心、つまり母と子の愛が語られているからです……。

2005年  J・チェーンの実態
J・チェーンの決起大会にはじめて参加してみて、その熱気とチームワークあふれる組織にひとまず安心した。ちょっとやそっとでは崩壊することはないだろう、と確信したためでもある。ただし、帰りの新幹線の中で、私の座席のすぐうしろにJ・チェーンの加盟店の人たちがいて、「こんなことで貴重な時間をつぶされるのはたまらない」「劇の練習だ、人の応援だ、勉強会だ、何やかやと狩り出される。こんなことしたって一銭にもなりはしない」「交通費だってみんな自腹だしな……。
投稿日:2018年06月23日(土) 05:55

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)