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日本画の革新児・今村紫紅

今日2月28日は、独創的で大胆な作品で後進に大きな影響を与えた画家の今村紫紅(いまむら しこう)が、1916年に亡くなった日です。

1880年、横浜市の提灯屋を営む家に生まれた今村は、15歳ごろ地元の画家に水彩画を学び、1897年に画家だった兄と共に松本楓湖に師事しました。1898年に日本美術協会展で早くも初入選を果たすと、1901年、生涯の友となる 安田靫彦 らと「紅児会」をつくって、主に歴史人物画の研究を進め、意欲的な作品を発表して、新日本画のリーダー的存在となりました。

1907年に安田とともに岡倉天心の指導を受け、菱田春草や横山大観らの制作姿勢に大きな刺激を受けると、1911年の第5回文展(文部省美術展覧会)に華麗な女性群像を描いた『護花鈴』を発表。原三渓の援助を受けて、三渓の収集した日本や中国の古美術鑑賞を行って明清画に親しみました。さらに翌年、第6回文展で『近江八景』が2等賞となって、画壇に大きな刺激をあたえ、名声をかちとりました。この作品で大和絵の伝統を受け継ぎながらも、南画研究による柔らかな筆、フランス印象派の絵画などを融合させた独自の様式を確立するに至りました。

1914年には単身でインドを旅行し、帰国後に第1回「院展」に『熱国の巻』(東京国立博物館蔵)を出品しました。これは穏やかな色彩、のびやかで大胆な構図など、紫紅芸術の頂点を示す作品といわれています。

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同年には、速水御舟ら青年画家らを率いて「赤曜会」を結成。「芸術に理屈はいらない。理屈が入ると窮屈になる。のん気に描け。美術家はいつでも、心にのん気になって描くだけの余裕がなければならぬ。何事にも拘束されず、自由に、快活に自己の絵を描け…」と語り、日本画の因習を壊し、主題、構図、彩色など絵画のすべての面で自由な創意による新しい日本画への改革こそ、紫江の生涯をかけた命題だったようです。

その芸術的革新性と、親分肌の豪放な性格から将来を大いに期待されましたが、酒による肝臓病に加え脳溢血を併発し、35歳の若さで亡くなってしまいました。親友だった安田は「今村君の爛熟期をみなかったことは返す返す痛恨の至り、最も悲しむべき美術界の大損失である」と綴っています。


「2月28日にあった主なできごと」

1533年 モンテーニュ誕生…名著 「随想録」の著者として、今も高く評価されているフランスの思想家 モンテーニュ が生まれました。

1546年 ルター死去…免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたドイツの宗教家 ルター が亡くなりました。

1591年 千利休死去…織田信長や豊臣秀吉に仕え、わび茶を大成し、茶道を 「わび」 「さび」 の芸術として高めた 千利休 が、秀吉の怒りにふれて切腹させられました。

1638年 天草四郎死去…島原・天草地方のキリシタンの農民たちは、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年 天草四郎 を大将に一揆を起こしました(島原の乱)。島原の原城に籠城して3か月余り抵抗しましたが、幕府の総攻撃を受けて、四郎をはじめ37000人が死亡しました。

1811年 佐久間象山誕生…幕末の志士として有名な吉田松蔭、坂本龍馬、勝海舟らを指導した開国論者の 佐久間象山 が生まれました。

1972年 「浅間山荘」強行突入…連合赤軍のメンバーが19日に軽井沢にある「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に立てこもっていましたが、この日機動隊が強行突入、激しい銃撃戦の末に人質を解放、犯人5名を逮捕、隊員2名が殉職しました。突入の様子はテレビで生中継され、視聴率は総世帯の9割近くにも達し、今なおこの記録は破られていません。

投稿日:2012年02月28日(火) 05:01

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)