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「ウィーン会議」 とタレーラン

今日5月17日は、フランス革命期からナポレオンによる第一帝政期の政治家として、ナポレオンの失脚後の「ウィーン会議」では、敗戦国が戦勝国に要求をのませた外交家として評価されているタレーランが、1838年に亡くなった日です。

1754年、名門貴族の長男として生まれたタレーランは片足に障害があったため後を継げず、神学校に学んで聖職者となりました。1779年に司祭となりますが、若さと才智にめぐまれたタレーランは、パリ貴族社交界の花形になり、賭けごとや恋愛にふけるなど、その行動は自由奔放なものでした。

1788年には父の意向でブルゴーニュのオータン司教となり、翌年には三部会の聖職者議員に選ばれました。「フランス革命」がおきると、自由主義議員として教会財産の国有化政策を推進するなど活躍、1890年には国民議会議長に選出され、革命記念日には大群衆を前にミサをあげましたが、その帰りにはとばく場へ立ち寄るなど、奔放な性格は変わりませんでした。その後司教職を辞しましたが、ローマ教皇から、反カトリック教会的行為をとがめられて破門されています。

革命が急進化すると、1792年に外交使節としてイギリスに派遣されますが、フランスでロベスピエールの指導下、ジャコバン派による反対派を断頭台に送るいわゆる「恐怖政治」が吹き荒れたためにそのまま亡命し、アメリカへ渡りました。

1796年にフランスへ帰国、ナポレオンが勢力をのばしたのをみると接近してクーデターに参加、成立した統領政府で外務大臣となり、適切な外交によって、ナポレオンから高い信頼を得ました。ナポレオン皇帝就任後は侍従長も兼ねましたが、他の国ぐにと協調すべきという自論は、ヨーロッパ支配拡大をねらうナポレオンの考えに同調できず、1807年に外相を辞任。フーシェらとともに、ロシアに接近してナポレオン失脚を計画しました。

1814年にナポレオンが失脚・退位すると、イギリス・ロシア・オーストリアら連合国に請われてフランス臨時政府の代表となり、ルイ18世の即位後は再び外務大臣となって、90王国、53公国が参加する「ウィーン会議」にフランス代表として出席しました。この会議は、オーストリアのメッテルニヒが議長を務めるものの、各国の領土的な野心が表に出たため、紛糾を重ね「会議は踊る、されど進まず」といわれました。タレーランは敗戦国でありながら、「ヨーロッパをフランス革命以前の政治体制と国際秩序にもどすべき」という正統主義を唱えて列強の利害対立を利用、巧みな外交手腕でフランスの国益を守ることに成功しました。

その後、1815年にナポレオンの百日天下のあと、一時首相となりましたが、王党派にフランス革命期の政治活動を非難されて失脚、1830年の7月革命ではルイ・フィリップ即位に貢献し、1834年までイギリス大使を勤めるなど、40年近くもフランスの外交に力をそそぎました。

タレーランは、個性的で奔放な性格のため、嫌われることも多い反面、名外交官として高く評価する人もいます。少なくとも、長年対立関係にあったイギリスとフランスの関係を深め、両国の協調と同盟の基礎を作ったことはまちがいありません。


「5月17日にあった主なできごと」

1510年 ボッティチェリ死去…「春」「ビーナスの誕生」などの名画で有名なルネサンス期の画家 ボッティチェリ が亡くなりました。

1749年 ジェンナー死去…種痘を発明し、天然痘という伝染病を根絶させたイギリスの外科医 ジェンナー が亡くなりました。

1890年 府県制の公布…現在の都道府県のもととなる府県制が公布され、地方自治のもとができあがりました。しかし当時は、府県の知事は政府によって決められていて、公選となったのは1947年に「地方自治法」ができてからです。

投稿日:2011年05月17日(火) 06:51

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)