今日5月16日は、青森県と秋田県にまたがる十和田八幡平国立公園にある湖「十和田湖」の開発に生涯をかけた和井内貞行(わいない さだゆき)が、1922年に亡くなった日です。
現在の秋田県鹿角市の旧南部藩士の長男として1858年に生まれた和井内が、はじめて十和田湖を訪れたのは1881年、十和田湖に近い小坂鉱山寮の役人として赴任した時でした。当時の十和田湖は、魚がまったく生息しないため、湖のぬしのせいだと信じられていました。そのため、小坂鉱山の労働者2500人のおかずの魚は、干物か塩漬けばかりです。みんなに新鮮な魚を提供できないものかと考えた和井内は、人々の反対を押し切って、湖での養殖を決意しました。そして1884年にコイの稚魚600ぴきを手に入れ、湖水に放流しました。その後12年間に放流したコイの数は3万びきを越えましたが、うまく育ってはくれても、群れる習性のないコイをつかまえるのが困難なため、結果的には失敗でした。しかし、魚が育つことを確信した和井内は、1897年鉱山を退職し、本格的に養魚事業に取り組みます。
次は、カワマスの養殖でした。日本各地のふ化場を見学したり、長男を東京の水産講習所に送って勉強させるなどして、十和田湖にマスのふ化場をこしらえ、カワマスの稚魚を放流して勝負をかけたのでした。ところが、2年がたち3年が過ぎても、網にかかったのはわずか数ひきだけです。カワマスもまた失敗でした。和井内は失敗の原因をつきとめました。マスは海の魚ですが、夏になると川をさかのぼって卵を生みます。この卵を人の手でかえして、幼魚を放流するわけですが、十和田湖の水は、奥入瀬川となって北東に流れて太平洋にそそぎます。ところが、その途中に高さ10mもの滝(銚子大滝)があって、カワマスは、その高い滝を昇ってもどることができないことに気がついたのでした。それが十和田湖に魚が住まなかった理由でもありました。そこで和井内は、魚がさかのぼれるように、滝をさけた別の川を掘ることにしました。
ちょうどその頃、北海道の支笏湖で養殖されているカバチェッボと呼ばれているヒメマスのことを知った和井内は、周囲の人たちに気ちがい扱いされながらも、全財産をはたいてヒメマスの卵を購入、ふ化させて成長した稚魚5万びきを十和田湖に放すことにしたのです。これに失敗したら、破産するしかありません。1903年の春のことでした。それから2年半後の1905年秋、十和田湖の湖面はさざなみでゆれていました。ついにヒメマスが群れをなして押し寄せてきたのです。養殖を志して22年、和井内の必死の努力が実った瞬間でした。
その後和井内は1917年に東洋一の人工ふ化場をこしらえ、近くに旅館を建てて観光客の誘致をはかりました。1921年には十和田湖の国立公園編入運動を進めましたが、翌年に亡くなってしまいました。まさに十和田湖開発にささげた人生でした。
「5月16日にあった主なできごと」
1703年 ペロー死去…『がちょうおばさんの話』(「長靴をはいた猫」「眠れる森の美女」「小さな赤ずきん」「シンデレラ」など名高い民話を語り直した話を収録)を著わしたフランスの童話作家ペローが亡くなりました。
1975年 女性初のエベレスト登頂…日本女子エベレスト登山隊の田部井淳子が、世界で初となる女子世界最高峰登頂に成功しました。さらに田部井は、1992年に女子世界初の7大陸最高峰登頂をなしとげています。