児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  近代洋画の先覚者・浅井忠

近代洋画の先覚者・浅井忠

今日12月16日は、明治期の洋画家で、黒田清輝と共に、日本の近代洋画の先覚者といわれる浅井忠(あさい ちゅう)が、1907年に亡くなった日です。

1856年、江戸の佐倉藩中屋敷に藩士の長男として生まれた浅井は、7歳のときに父を失い、家督を継いで佐倉に帰りました。8歳のころから儒教や武芸を学ぶかたわら花鳥画を習いはじめましたが、のちに上京して、ヨーロッパで絵の修業をしたことのある国沢新九郎の指導のもとに油絵の初歩を学びました。

1876年に浅井は、開設されたばかりの工部大学校(のちの東京大学工学部)付属美術学校に入学して、来任したイタリア人の画家フォンタネージから写実的な洋画の手ほどきを受けました。浅井は、師の本格的な画風や人格に共感し懸命に学びましたが、薫陶を受けたのはわずか2年ほどでした。気候風土に合わずに脚気を病んで帰国したフォンタネージの後任の教師には不満で、浅井は中退してしまいました。

1889年、わが国で初めての洋画美術団体の「明治美術会」を浅井が中心となって創立、その展覧会に『収穫』『春畝(しゅんぽ)』など、明治初期の代表的な写実的絵画を発表しました。当時の浅井の作品は、写真を参考に、いろいろ組み合わせたといわれています。しかし、それをそっくり写し取ったのではなく、より正確に描こうとした姿勢のあらわれでした。

その後浅井は、1894年に起こった「日清戦争」に従軍画家として参戦し、たくさんのスケッチを残しています。写真が報道にあまり使用されていなかった時代の大切な記録となっています。

1896年に東京美術学校(現・東京芸術大学)に西洋画科が新設され、フランスから帰国した 黒田清輝 が教授に迎えられ、1898年には、浅井が「明治美術会」を代表して教授に推されました。黒田の「紫派」に対し、浅井の褐色を主とした作風による「脂(やに)派」の、それぞれの教室が注目されました。

1900年浅井は、文部省からフランス留学を命じられてヨーロッパに渡りました。このときパリ郊外のグレーで制作した『グレーの秋・古橋・森』などの風景画や『農婦(下の絵)』などの人物画は有名です。

asnofu.jpg

1902年に帰国後は京都に移り、「京都高等工芸学校」(現・京都工芸繊維大学)教授となり、個人的に「聖護院洋画研究所」(後の関西美術院)を開いて、梅原龍三郎安井曽太郎 らたくさんの逸材をそだてました。画家としてばかりでなく、教育者としても優れた人物でした。


「12月16日にあった主なできごと」

1653年 クロンウェル初代護国卿…「清教徒革命」に勝利したイングランドの政治家 クロンウェル が、イングランド共和国の初代護国卿になりました。護国卿は、王権に匹敵する最高統治権を与えられた職名。

1773年 ボストン茶会事件…この日の夜、インディアンに変装したボストン市民が、港内に停泊中のイギリス東インド会社の船に侵入。342箱の茶を海に投げ捨てました。この事件がキッカケとなって、イギリス本国と植民地の関係が急速に悪化、1年4か月後にアメリカ独立戦争が勃発しました。
 
1859年 グリム弟死去…兄弟で力をあわせ、ドイツに伝わる民話を集大成した グリム兄弟 の弟ウィルヘルムが亡くなりました。

1864年 奇兵隊の挙兵…11月の第1回長州征伐に敗れた長州藩でしたが、高杉晋作 の率いる足軽・百姓・町人の有志で組織された「奇兵隊」がこの日挙兵して、藩の主導権を握りました。

1932年 白木屋デパート火災…東京日本橋の白木屋デパートで火災がおこり、地下2階、地上8階の建物の4階から8階までを全焼。この火災で客や店員ら14人が死亡、500人余りが重軽傷を負うなど、日本初の高層建築物火災となりました。当時の女子店員はまだ和服だったために、行動が不自由で逃げ遅れた人が多く、この惨事がキッカケとなって、洋服を着る女性が多くなったといわれています。

投稿日:2010年12月16日(木) 07:06

 <  前の記事 放射線を発見したベクレル  |  トップページ  |  次の記事 大正歌壇を代表する島木赤彦  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2280

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)