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昭和を代表する洋画家・安井曽太郎

今日12月14日は、梅原龍三郎とならび、第2次世界大戦前後の日本洋画界をリードしてきた安井曽太郎(やすい そうたろう)が、1955年に亡くなった日です。

1888年、京都で木綿問屋を営む商人の家に生まれた安井曽太郎は、当時の商人の息子の常として商業学校へ入学しましたが、反対する親を説得して絵の道に進みました。1903年に聖護院洋画研究所(のちの関西美術院)に入門、浅井忠らに師事して、梅原龍三郎 らとともにここで研さんを続けました。その勉強ぶりはすさまじいもので、デッサン用のパンをかじっては午前、午後、夜間の三部に居座り続けたといわれています。

1907年、先輩画家が渡欧することを耳にした安井は、いっしょにヨーロッパで学ぶことを決意し、パリのアカデミー・ジュリアン研究所に入学しました。たちまち頭角をあらわした曽太郎は、毎月行なわれる学内のデッサンコンテストでは、賞を独占し続けました。1910年、3年間通った研究所を去り、自分のアトリエを借りて、静物画やモデルを雇って裸婦を描くなど、自由に、意欲的に取り組みました。そんなある日、友人の 荻原碌山 に誘われて セザンヌ 展を見にでかけました。セザンヌのもつ優れた写実性、色彩表現、デフォルメの見事さに驚嘆した曽太郎は、強い影響を受けた作品を描くようになりました。

1914年、第1次世界大戦が勃発しドイツがフランスに宣戦布告したことに加え、自身の結核が悪化していたために帰国。翌1915年には文展から独立した二科会会員に推挙され、第2回二科展に滞欧作44点を出品して、一大センセーションを巻き起こしました。セザンヌ流の造形性を組み入れた個性的な感覚表現に、人々は圧倒され、大きな喝采をしたのです。

ところが、その後の10年ほどは、曽太郎の画業の低迷期でした。身体の不調が続いたのに加え、光の陰影の細やかなフランスで鍛えてきた描写力は、明暗のはっきりした日本の風土では通用しないことへの苦悩にもありました。まさにこの10年は、曽太郎が独自の画風を模索しつつ、じっくり暖めていた時期だったのでしょう。

やがて、風景画、肖像画、静物画の各分野に、曽太郎独自の様式を打ち出し、近代感覚に満ちあふれた造形領域をいっきに開きはじめました。1930年の『婦人像』あたりから、写実主義に安井独自のデフォルメを加えた様式を確立、1936年には一水会を創設して『金蓉(きんゆう・下の絵)』『孔雀と女』などを相次いで発表しました。こうして梅原龍三郎とともに昭和10年代は「安井・梅原時代」とまでいわれ、昭和期を代表する洋画家と評されるようになったのです。

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1944年には、梅原とともに東京美術学校(今の東京芸術大学)の教授になり、1952年には共に文化勲章を受章しましたが、1955年に会長をしていた「日本美術家連盟」の年末助け合い運動に参加作品を制作中、急性肺炎のために67歳で亡くなりました。


「12月14日にあった主なできごと」

1702年 赤穂浪士の討ち入り…赤穂藩(兵庫県)の藩主だった浅野長矩(ながのり)が、江戸城の松の廊下で、吉良義央(よしなか)に侮辱を受けたために斬りかかった前年3月の事件で、浅野は切腹、藩はとりつぶしになったのに対し、吉良には何のとがめもありませんでした。この日の深夜、浅野の元家臣だった 大石良雄 ら赤穂浪士46名は、吉良邸に討ち入り、主君のあだを討ちました。浪士たちは翌年2月切腹を命じられましたが、人びとは浪士たちの行動に拍手かっさいし、『忠臣蔵』として今も芝居やドラマになって、語り継がれています。

1799年 ワシントン死去…イギリスからの独立戦争で総司令官として活躍し、アメリカ合衆国初代大統領となった ワシントン が亡くなりました。

1911年 アムンゼン南極点に到達…ノルウェーの探検家 アムンゼン は、4人の隊員とともに世界で初めて南極点に立ちました。

2003年 フセイン大統領の身柄確保…アメリカ軍は、イラク戦争で民家に隠れていたイラクの元大統領サダム・フセインの身柄を確保しました。裁判の結果、3年後の12月30日、死刑となりました。

投稿日:2010年12月14日(火) 07:43

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)