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ロダンに魅せられた碌山

今日12月1日は、明治時代の彫刻家で、『文覚』『北条虎吉像』『女』などを制作した荻原碌山(おぎわら ろくざん)が、1879年に生まれた日です。

長野県安曇野市に生まれた碌山は、幼い頃から病弱で、読書をしたり、絵を描いたりして過ごしました。地元の小学校を卒業後、家業の農業に従事しましたが、同郷の先輩で後に新宿・中村屋の創設者となる相馬愛蔵と知り合い、人間的・思想的な共感をおぼえました。

碌山は17歳の時、愛蔵のもとに嫁いできた新妻の黒光と出会いました。東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性でした。黒光に啓発された碌山は、芸術への情熱に目覚め、洋画家になる決意をするのです。

1901年アメリカのニューヨークに渡って絵画を学んだ碌山でしたが、なかなか本当に描くべきものが見出せずにいました。そんな修行の日々を送るうち、1903年フランスを訪れた碌山は、近代彫刻の父といわれる ロダン の『考える人』を見て、大きな衝撃を受けました。「人間を描くとはただその姿を写し取ることではなく、魂そのものを描くこと」に気づいた禄山は、彫刻家になる決意をし、パリのアカデミー・ジュリアン研究所に学びました。校内コンクールでグランプリを獲得するほどの実力を身につけ、ロダンにも面会を果たし、1908年に帰国しました。

こうして碌山は、東京新宿にアトリエを構え、彫刻家としての本格的な活動をはじめます。あこがれの黒光もその頃上京し、愛蔵は新宿・中村屋を開業しました。相馬夫妻との家族ぐるみのつき合いと、黒光の近くで作品を作る充実感に満たされながら、碌山は『坑夫』『文覚』などを制作、彫刻界に注目されだしました。

碌山はいつしか黒光に強い恋心を抱くようになりましたが、それは決して許されない恋でした。ある日、黒光から夫の愛蔵が浮気をしてると告白され、愛する女性の苦しみを知り、碌山の気持は抑えようもない炎となって燃えはじめました。

そんな出口のない想いをぶつけるように彫刻制作に没頭し、碌山はさらなる名品を次々にこしらえていきます。『デスペア』『北条虎吉像』『労働者』『母と病める子』など、数々の作品により、碌山はわが国近代彫刻の先駆者と讃えられるようになりました。そして代表作である『女』を1910年に生み出しました。この作品は、黒光への想いがもっともよく表現されているといわれ、明治以降初の重要文化財に指定されています。ところが、まもなく碌山は、中村屋で原因不明の喀血をしたまま、息をひきとってしまったのです。

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なお、死後48年たった1958年、碌山の生地である北アルプスの麓・安曇野に「碌山美術館」がひっそりと建設され、一般に公開されています。遺作となった『女』をはじめ、たくさんの作品を鑑賞することができますので、一度は訪ねてみたい美術館としてお勧めします。


「12月1日にあった主なできごと」

1789年 ギロチンの採用…フランス革命のころ、死刑執行のために使われた首切り器械のギロチン。ギロチンは、医師のギヨタンが提案してこの日の国民議会で採用されました。ルイ16世やその妃 マリー・アントアネット をはじめ何万人もの人が首を切られましたが、ギヨタンもまたギロチンで処刑されました。

1903年 小林多喜二誕生…『蟹工船』『不在地主』『党生活者』などを著し、日本プロレタリア文学の代表作家といわれる 小林多喜二 が生まれました。

1997年 京都議定書…「地球温暖化防止会議」が、この日から10日間京都で行なわれ、地球温暖化の原因となる温室効果ガスをだす量を、先進国が国別に目標値を定めてへらしていくことを決めました。この取り決めは「京都議定書」と呼ばれています。

投稿日:2010年12月01日(水) 06:36

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)